松野家四男と黒猫のタンゴ

松野家はタダ飯食らいの成人男性六人を抱えるなかなかインパクトのある一家だ、というのは赤塚界隈では有名であった。
ただでさえイタズラ盛りの子供が二人、三人そろえば爆発力は倍ではきかないだろうに、同じ顔をした六つ子だ。六人もの男子がそろい、しかも全員健康でずる賢さだけは折り紙つき。なにか事件が起きればああ松野さんとこね、塀が壊れたガラスが割れたなんだかんだとすべて、あの六つ子がなにかしでかしたに違いないとまとめられる。実際だいたいの悪事は六つ子のせいであったが、十のうち一つか二つはよその悪ガキが原因だったりもしたので納得がいかない気持ちもある。まあ早いうちに世間とはそういうものだと知れたことはよかったと言えなくもないが。
なにか事があれば名前のあがる六つ子の母はどうかと言えば、これが案外居心地が悪くない。
一人や二人の不良債権であれば無駄な正義感を振りかざした誰かれが、親切めかしてちくちく責め立ててくれただろうに、男ばかり六人、なんせ六つ子だ。彼らをそろってせーので腹から出してきた松代に、同情することはあっても誰一人責めたりなどできなかった。

あれは天災である、人知の及ぶ範囲ではない。

それでも、と食い下がりそうな考えなしのすかぽんたんには商店街の皆さんや消防団、少年補導に老人会からストップがかかる。生まれた頃から六つ子を見てきた彼らは知っているのだ。小学生にして悪童と呼ばれ、中学生の時は地元じゃ負け知らずとうそぶき、高校生では売られた喧嘩は小遣い稼ぎだと理解してしまった彼らを。

悪い子たちじゃない、ああもちろんちょっと考えなしだったり短気だったりもするけれどそれがすべて悪いかと言われたらそうじゃないだろう? 個人の性格の問題で、けして悪い子じゃないんだ。家族思いのいい子たちなんだ。だからやめておきなさい。

まあそんな忠告がされていたのも六つ子が未成年の間まで。
とっくに成人していまだお気楽にニートを楽しんでいる六人を知っている者は皆、松造と松代に同情こそすれ六つ子に迷惑をかけられた文句など告げに行くはずもない。それどころか親御さんを悲しませるもんじゃないと説教されることの方が多い。
もっともな話である、と一松も思う。ただ、だからどうこうするつもりがまるでないだけだ。
こういうところが兄弟そろってクズであると胸を張るしかないのだが、右も左も毎日をだらだら過ごしているのに汗水たらして労働なんて考えるだけで腹が痛むではないか。
隣を歩く兄ならばきっと、労働なんて非生産的なこと、なんておまえは霞でも食って生きるのかとつっこむしかない寝言を口走るのだろうなあと横目でうかがえば、兄は腕の中を見つめて目元を緩めていた。

「ほんとに助かった、ありがとうな一松。なんせこの子はタバコ屋の看板娘だからな、商売にも影響するだろ」

三駅離れたスーパーの裏手で保護した茶とらは、先代の看板娘であった母猫が産んで以来ほぼ外になんて出た事のない、文字通り箱入り娘だった。いつも店先で昼寝をし、一軒隣の文房具屋までしか偵察に行かない。家の中だけが己のナワバリだと決め、大人しく飼われることしか知らない飼い猫であったのに。

「……これで四件目だね」
「ああ」

最近、赤塚界隈は不穏である。
飼い猫が頻繁に行方不明になり、数日後、ぼろぼろにやつれ腹を空かせて帰ってくる事件が多発している。一松が見知っている野良猫も数匹、姿を消していた。

「婦人会のレディ達が、昼間から見ない顔がうろついていると怯えていた。関係あるかもしれない」

本来消防団や青年団に入っておくべきカラ松は、なぜか婦人会の永久名誉会員である。
同じ顔が六つもあったら混乱する、と赤塚在住ならばどこかへ所属すべきだと決める際強硬に主張され、ばらばらに属した六つ子だが、実際のところは兄弟がそろえばそろうほど面倒を起こすと思われているからだ。確かにその通りなので、六つ子は松代の号令のもと声をかけられた団体に所属することとなった。

おそ松は消防団、チョロ松は商店街二代目の会、一松は公園美化推進委員会、十四松は少年補導、トド松は町内会。所属といってもおそ松は月に一度集まって酒を飲むばかりだし、チョロ松は実質オタク語りばかりしているらしい。十四松は火の用心とたまに拍子木を叩きながら夜見回りをして役立っているが、トド松など名ばかりでたまに回覧板を回すくらいだ。名ばかりといえば一松も、公園が汚れていたら掃除をしましょうとのことなので空缶を見つけたらゴミ箱に入れるくらいの活動しかしていない。
そんな中もっとも活動しているのは、成人男性は参加しないはずのコミュニティに属しているカラ松であった。

今でも一松は思い出す。体力があるなら消防だ、いや祭りのために青年団だ、いやいや有事にはどこに属していても駆けつけるんだから他でもいいじゃないか。六つ子の中なら、と注釈はつくがそれなりに温厚で話の通じやすい二番目はなかなかに人気であった。飾り立てた言葉も意味が通じていないとわかればすぐ言いかえる。金をたからない、きれない、卑屈にもならず話が通じ体力もある、なによりニートのため時間が有り余っている。メリットしかないように見えた松野家次男を最終的に勝ち取ったのは、欲しい人材を主張しあっていた皆に兄弟を上手く分配し、あらカラ松くん余っちゃったわねじゃあ私たちのところにいらっしゃいな、と言い放った婦人会であった。どの団体にも夫や息子、孫のいる彼女らに勝てるわけがない。
こんなぽんこつをとりあっていたなんてどうかしている、と一松はあの時も思っていたし今も考えは変わらない。どれほど穏やかな好青年に見えたとしてもそれはあくまで六つ子にしては、だ。松野カラ松は、働くなんて不毛なことだと言いきり最後まで実家から離れないと養われる前提で胸を張るクズである。猫カフェで働いたことのある一松の方がまだマシだ。
しかして争奪戦を勝ち抜いた婦人会でカラ松はというと、なかなかに楽しく過ごしているようである。
今日は誰それの家で会合がと週に二度は出かけ、仏壇用の茶菓子やブルボン系の菓子を楽しみながらちまちまと編みぐるみやちぎり絵などを作成しているらしい。たまに玄関とトイレの飾りが変わるのは松代のおかんアートではなく次男アートであるのを一松は知っている。

「そいつが猫を誘拐してるってこと?」
「そこまではわからない。見たことのない顔だってことと、声をかけるとそそくさ逃げるんだそうだ」
「決まりでしょ」
「……まだわからない」

いつになく言いきる一松に戸惑ったのか、カラ松は常のように言葉を飾らずまたちらりと腕の中をうかがった。薄汚れてぴくりとも動かない猫は、まるでぬいぐるみでも抱いているように見える。今のところ飼い猫はみんな戻ってきている。帰巣本能に頼れないくらい箱入りであったこの茶とら以外は自力で。
しかし野良はわからない。そして、これ以降もそうであるとは限らない。

「一松」

二つ上の兄はめったに出さない声を出した。

「協力してくれないか」

普段よりもまだ低い、すでになにかを考え始めてしまった声。この声音の二番目の兄の言うことは基本的に従うのが六つ子の、いや五人のルールだ。それは普段どれほど彼を雑に扱っている兄弟であっても。

「なにしたらいいの」

彼のすべてに反抗すると思われている一松であっても。

 

◆◆◆

 

きゅ、とバツ印をつけると少し離れて地図を見る兄が礼を言った。

「……バラバラだね」
「ああ」

猫を誘拐された家と発見場所、種類に名前に年齢。野良猫を一松の記憶に頼って追加してみても共通点は見えない。まるで落書きをされたかのような赤塚区の地図を見つめるカラ松は言葉少なで、手持無沙汰な一松は手元の茶菓子をひとつ口に放り込んでやった。
別に甘やかしているわけではない。こうなったカラ松は脳にほとんどのエネルギーを回すのか、極端に口数が減るし動きもしない。そのくせ大量の糖分を欲しがるので、見かけた兄弟はなにかしら口に入れてやるのが幼い頃からのお約束なのだ。
特別。この状態の二番目にだけ、他の五人が決めた特別ルール。
ルールならば守らなくてはならない。一松は家族を大切に思っているし、兄弟で仲良くやっていきたいと考えている。それならば決められたルールは守るべきだろう。そういうことだ。それだけの。
ぱかりと開く口にラムネを放りこむ。あいかわらずの駄菓子チョイスにこの家でのカラ松のポジションを悟っていると、お待たせとのれんから伸びてきた手にお盆を渡される。

「イチくんこれお願いね。すぐおぜん拭いちゃうから」
「お気づかいなく」
「やーだそんないっちょまえなこと言えるようになっちゃって! カラちゃんなんてぐてっと座って動きもしないのに」

きゃらきゃらと楽しそうに笑うこの人達が普段カラ松を甘やかしまくっているんだろうな、と見てもいないのに理解した一松は、指示された通り麦茶の乗った盆を抱えて待つ。駄菓子が盛られた菓子器をもうひとつ卓袱台に置いたその口で甘やかしてないとうそぶくのだからたまらない。

「梅田のばあちゃん、ありがとね。地図も、場所も」

他人の家で我が家のようにくつろいでいるカラ松の代わりに口を開けば、いいのよぉとまた高い声が返る。

「カラちゃんはしょっちゅう遊びにくるしおそくんもよく見るんだけど、イチくんは珍しいでしょ。明日の会合で自慢しちゃお」
「なに、長男までふらふらしてんの」
「高校野球の時期なんか、賭けてんだろうね、勝った負けたうーるさいったら。まあ爺さん共のいい刺激になってんじゃないの」

遭遇率の低いレアモンスター扱いされた自分をそっとと無視して長男の動向に水を向ければ、さほど知りたくなかった昼間の行動を教えられる。確かにパチンコと競馬だけにしては出かけていると思っていた。よく金が続くなと。まさかよその家に上がり込んでいたとは。
ストローをさしたグラスを手元に持っていけば、唇が開くのでそのままストローをつっこむ。仕方なく。余所様の家で殴るわけにもいかない。麦茶をこぼしてしまっては申し訳ないから。

「それに猫のこと探してくれたんでしょ。イチくんが協力してくれたってうれしそうに言ってたわよ」
「別に、ふつー」
「煙草屋のじいさんったらそりゃもうしょげてたからミエちゃんも怒っちゃってさ、そりゃ最初は慰めてたけどそもそも猫なんだからあちこち遊び歩くのは当然ですって。でもほら、じいさんも頑固じゃない? 変なとこで言いかえしたりしてさ、おまえにあの子のことはわからんって言っちゃってさ、あの猫の世話してたのは誰だって話でしょ。ミエちゃんもかわいがってたのにそんなこと言われてね、そっりゃもう荒れてひどかったんだから。あんなに情のない人だとは思わなかった、このままではやっていけない、って荷物までまとめだしちゃって」

煙草屋の、で先日探しだした茶とらの話だとは察した。しかしその後はなにがなにやらわからない。ミエちゃんって誰だ。じゃない? って言われても最近タバコはコンビニで買うことが多い一松は、煙草屋のじいさんとやらをほとんど知らない。
後半は理解することを放棄して、一松はただひたすらに肯いた。なるほど。ははあそれは大変だ。なるほどなるほど。へえ~そうなんだ。

「っていう話をね、カラちゃんはそりゃ楽しそうに聞いてくれるのよ。何度でも」

ほらもう年寄りだからね、何度でも繰り返すからうんざりでしょ聞くの。しっかり見透かされていたことに一松は苦く笑うが責められてはいないらしい。

「しかもちゃんと内容も覚えててね、ところでこの間のまんじゅうで喧嘩していた角の奥さんはどうなったんだ、なんて。婦人会の会合ね、カラちゃんが参加する時としない時の出席率の差ひどいのよ。イチくん今度ちゃんとカラちゃんに言っておいてちょうだい。今晩はからあげだから、とか言って休むから会合の持ち寄りお菓子、最近からあげも追加されたんだから」

二番目の兄のモテる秘訣は理解したが、老人相手ではまったくうらやましくない。それくらいなら一松は猫にモテたい。しかしたまに揚げ物の匂いをさせている兄の秘密を知ってしまったので、そして老い先短い年寄りにお願いなんて言われてしまったので、仕方なしに首を振る。
なぜカラ松への注文を一松が受けつけなければいけないのか。ここに居ないならまだしも目の前に座っているというのに。そう内心文句をつけても一度考えだした次男は基本的になにもできない。すでにご近所さんまで理解されているのが気恥ずかしいが、だから兄弟がこの時ばかりと世話を焼くのも仕方ないと受け入れてもらえるので痛み分けだ。
それでもやはり恥ずかしいのが優ってぶすくれていた一松の横で、りりりと電話が鳴る。息子のとこかしら、なんて浮かれた声は返事のたびに困惑の色に染まった。

「は? いえね、だからうちは梅田っていってね」
「エツコさん、代わっても?」
「え、でも、あら」

すい、と勝手にスピーカーボタンを押したカラ松が身を乗り出したとたん電話は切れた。

「……間違い電話にしては長かったね」

苛立った若い男の声だった。独特の、どこかの訛りのような奇妙な抑揚とひどい早口。あれでは老人は聞きとれないだろう。

「最近多いらしいのよね。おれおれ詐欺!」
「いや、あれとはちょっと違うんじゃ……」

自分の子や孫と勘違いさせて金をせしめる詐欺としては失格だ。なんせまるで言葉が通じていない。

「多いって、今のが? エツコさん、カラ松ガールズにさっきみたいな電話がきているかどうか確認してもらえないだろうか」
「いいわよ。じゃあ明日の会合で情報持ち寄ってもらうから、カラちゃんも参加してね」
「もちろん」

明日は欠席じゃなかったのかとか幻だと思われていたカラ松ガールズはここにいたのかとかそもそも勝手によその家の電話をスピーカーにするのはどうなんだとか。いろいろ言いたいことはあったのだが一松はぐっとこらえた。
だって今のカラ松には協力しなければいけない。いつものように、気に食わないからと胸倉をつかんではいけない。
いくら家族に向けるような親しげな顔を余所様に向けていたとしても、さっきまでは、明日は一松と現場を巡りたいと言っていたとしても。

「あ、一松は甘いものが好きなんだ」
「水ようかんがあるから明日だしてあげるわね」
「へ?」

勝手に婦人会に参加が決まってしまっていたとしても。

 

◆◆◆

 

赤塚区の地図につけたバツ印は、増えない。
小動物を傷つける犯人は、大抵エスカレートするのが常だ。怪我を負わせ、命を奪い、次はもっと大きなサイズのなにかを。だからこそ猫が誘拐され遠く離れた場所で放たれていた件を重要視していたのだが。
今のところ、新たに猫がさらわれたという情報は入ってきていない。ご近所ネットワークに関してはピカイチの奥様情報にないのなら、実際起こっていないのだろう。路地裏の野良猫達も、一松の確認できる範囲ではいなくなってはいない。

「一松、戻っていたのか」

感じの悪い間違い電話は、あれからも数度あったらしい。すべて赤塚界隈で、老人のいる家。

「ねえ、あの電話なにかわかったの」

Vネックの黒いシャツにジーンズ、スニーカー。わざわざトド松に借りてまでらしくない服を着たカラ松は、ここ数日、カラ松ガールズの家にも寄り付かずどこかへ出かけている。普段はきれいにセットされた髪の毛が風にあおられたのかふわふわと乱れている。整髪剤をつけていないからか服装のせいか、妙に幼く見えてなんだかやりにくい。
一松は、子供に強く当たるようなひどいことはしたくないのだ。

「ああ、そうだな。それなりに」
「なに」
「いや、うん、あー」

今はもう考えていない。いや、常よりは考えてはいるのだろう。けれどエネルギーのすべてを使い尽くすほどには脳を働かせていない。その証拠に口元にチョコレートをつきつければ礼を告げられ手で受けとられた。
仰々しいほど飾り立てた言葉を使う方にはまだエネルギーがいきわたっていないから、説明を聞くなら今がチャンスだ。

「おれ、今回ちゃんと協力したし」
「一松の力なくしてはかわいいキャットは戻ってこれなかったぞ」
「婦人会にも行ったし」
「みんな喜んでたな。また行こうな!」

一松は実際大したことはしていない。迷子の猫はカラ松に頼まれずともしょっちゅう自主的に探しているし、婦人会に顔を出したのはレアキャラを自慢したかった梅田のばあちゃんの画策だ。目の前に積まれる菓子を消費しながらカラ松の隣で座っていただけ。今も、地図を見て唸ることしかしていない。結局不審者が猫誘拐の犯人だったのか、間違い電話にカラ松がひっかかっているのはなぜなのか、なにひとつわからない。
それでも無理やり恩着せがましく言いつのれば、バカみたいにお人好しなこの兄は断ることなどしないのだ。

「だからちゃんと説明される権利があるんじゃない」
「……でもおまえ、見ていただろう?」

汚すとトド松がうるさいのでそそくさと普段の松パーカーに着替えながら、あたりまえの口調でカラ松は告げる。気づいていたのか。

「別に、偶然だし」

そう。別にひょいひょい出かけるこのバカの行き先が気になったわけじゃない。気にならなかったといえば嘘だけど、それはほら、あれだ、猫誘拐とおれおれ詐欺未満の犯人がわかっていないのになんだよって義憤だ。そうそれそれ。
だから別に、なんで普段着でもなくパーフェクトファッションとやらでもない、世間一般からの好感度が高そうかつちょっと幼く見えるような服でわざわざ行くのかとか。妙に親しげなあの外人は誰だよとか。つーかなによその男にふわふわ笑いかけてんだよおまえのその顔ここ数年こっちに向けてもらったことないんですけど弟全員で一揆すんぞおら、とか。そもそもなんで肩に腕まわされたり腰さわられたりしてるのにいつものゴリラ解放しないんですかねえおまえ学生気分に戻るにも程があるだろとか。とか。とか。とか。

まあいろいろ思うところもあったけれど、一松は通りすがっただけなので。
あくまで歩いてて偶然。猫に餌をやりに行って、ちょっと新規開拓兼野良達が心配だったから見回りしていただけで、そうしたら偶然たまたま二つ上の兄がいて、外人にやけに親しげにされていたなという話だ。なので見ただけでさっさと帰ってきた。もちろん乱入とかしていない。猫も。する理由がないから。ただ今は、家の中が暑いから玄関で涼んでいただけで、帰ってきたら即問い詰めてやるとかそんなつもりあるわけない。ないったらない。

「あれ、誰」

口からぽろりとこぼれ落ちた問いかけに一松は首をかしげた。
訊きたかったことはこれだっただろうか。猫の誘拐事件の犯人とついでのおれおれ詐欺未満、一松とカラ松の最近の話題はこれだけで、今もそれをほっぽり出してほいほいどこかの男に会っていたから怒っていたわけで。あれ。怒って? 一松が怒るようなことはあっただろうか。

ざっと血の気が下がる音が聞こえた。
間違えた。
違う。一松が訊くべきことは、訊いていいことは、猫の誘拐事件は解決したのかとか不審な電話はもうないのかとかそういう、二人で調べたあれこれのことで。兄が誰と会っていてもそれは自由というやつだし、一松とてあの猫はどこの子だとか絡まれたらうっとおしいし、いや連れて行ってやってもいいんだけど路地裏ツアーおまえがクソみたいな言葉垂れ流さなかったら、ていうか今はそうじゃないそうじゃなくて誤解を。

「さすがだな一松。ビンゴォ~! あいつが犯人だ」

バン、とピストルの形を摸した指先で胸を撃たれ思わず膝をついた。
なんだなんだ今日はノリがいいな、じゃねーよボケ。死ぬかと思ったわ、つーか死んだわ一瞬。おまえに撃たれてじゃなくなんだかよくわからない原因で心臓が止まったわ。

「ところでオニーチャン」

機嫌良くコーヒーを用意しだしている後ろ姿に声をかければ鼻歌を中断して返事される。なんだボクの恋人は黒い猫って、別に紫でも青でも何色でも猫はかわいいだろうが。マグカップを両手に持っているあたり、一松の物も作ってくれているのだろう。そういうところには気が回るのに、なぜこんなにもぽんこつなのか。

「犯人と何回もデート、とか弟としてぜんっぜん笑えないんですけどねぇ」

猫のご機嫌伺いに一松が出歩いているのは今日だけではない。そしてカラ松が妙に若ぶった格好で外出しているのも。
本当に偶然って怖い。

「かーわいい弟に、もちろんイチから説明してくれるよなぁ?」

 

◆◆◆

 

痴情のもつれ、が原因だなんて呆れ果ててため息しか出ない。

「ノンノンノン一松、それが原因なんじゃない。そういうふうに考えた、んだ」
「なにが違うのさ。イタリアのどっかの金持ちボンボンが日本に来た時会った大和撫子と恋に落ちて、でもボンボンには妻も子もいたから一時の遊びで終わったのに、死に際に思い出して遺産を譲りたいって言いだしたんでしょ。それに腹立てた妻子側が愛人に嫌がらせした、ってどう考えても痴情のもつれだし」

日本の愛人を『私の黒猫』と呼んでいたからきっと猫を飼っていたんだろう、出会ったのが赤塚だからきっとこの辺りに住んでいるに違いない。
なんという行き当たりばったりで穴だらけの考え方。それとも、そんな馬鹿げた考えにすがらないと怒りさえも発散できなかったのか。

「まあ十三歳だからな」

曾じいさんの愛人に天誅を、曾ばあさん達の悲しみを思い知れ! と義憤に燃えて愛人を探していたのは、元凶のボンボンの曾孫であった。日本にホームステイ中の彼に従兄弟から、曾じいさんが浮気していたらしい、なんて電話がかかってこなければ少年とてもっと有意義な滞在を楽しめただろうに。さすがの一松とて少々の同情はする。なんせ十三歳だ。
苦しめてやろうと猫をさらい、けれど傷つけることはできずに遠くで放す。タウンページでかたっぱしから電話をかけ、曾じいさんについて質問するも慣れない日本語は老人達には特に通じない。見ず知らずの相手に何十回もこんなことをしている丹力だけは認めてやってもいいかもしれない。

「で、おまえの会ってたあの外人がその子供だったんでしょ。納得したの?」

お人好しのカラ松らしく、曾ばあさんを愛しているから戻ったんだろうとか誰も悪くないとか、ふわふわで頭の悪い説明でうまくごまかしたのかと思いきや兄はにんまりと笑った。
笑った?

「少年が得ていた情報は、曾じいさんは昔日本で浮気をした、浮気相手は赤塚で出会った、死ぬ間際に浮気相手になにかを渡したいと口走っていた、相手のことを私の黒猫と呼んでいた、だ。そして彼の願望込みの元からあった情報に、曾じいさんは曾ばあさんを愛している、自分たちはとても仲のいい家族であった、がある」

丁寧に指を折りたたんで口を動かすカラ松の声は、いつもよりも低い。ポケットに入っていた飴を剥いて口元に持っていけば、べろりと無造作に舌が出てきて迎え入れる。

「オレが少年と仲良くなって目の前にばらまいてやった情報は、当時黒猫のタンゴという曲が日本で流行っていた、それはイタリアの民謡を元にしている、タンゴというダンスをオレのばあさんは習っていたような気がする、ダンスの道具は興味のない人間には意味がないものだろうな、のよっつだ」

ここから、目一杯都合よく楽観的に誰も悪くないようにお話をつくりあげるなら、どうぞ。

「浮気は誤解で、曾じいさんは日本でダンスパートナーに巡り合っただけ。イタリアと日本で同じ曲がおもしろくて黒猫って愛称をつけた彼女に渡したいものは、ダンスで必要ななにか。曾じいさんは曾ばあさんを愛していたし遺産を愛人に渡したいなんて言ってませんしゅーりょー」

あまりに出来の悪い話に顔をしかめれば、よくできたとばかりに弾む声が降ってくる。

「十三歳の少年には必要なおとぎ話だろう?」
「ふざけてるね。いつうちのばあさんタンゴ習ってたの」
「習ってる、なんて言ってないぞ。そういう気がしたんだ」
「その前におまえ、どうやってそのガキと知り合ったの。ガキがおまえの流した話信じるには、おまえが愛人の孫とでも偽らなきゃムリだろ」

思い出すのはらしくない服を着て見知らぬ男に寄り添うようにして笑っていた顔。
相手が十三歳で、慣れない国でひとりよがりの義憤に駆られていた子供でしかないとわかった今でも正直腹立たしい。あれはだって、あの顔は。ほとんど長男が独占している、兄じゃないカラ松の顔ではないか。

「うん? ほら、マサコさんのところでオレが電話とったことあっただろ」
「あー佐々木さんとこか。つうかなんでおまえ全員名前呼びなの」
「そうしてほしいと言われたからだが」

カラ松ガールズの名前は呼べるのに小学生女児には緊張する、この兄の線引きが未だにわからない。還暦以上は女扱いじゃないのかと思いきやレディだのガールズだの歯が浮くような呼び方に緊張感の欠片も見えない。

「あの電話が少年からでな、オレのことをマサコさんの孫だと勘違いされて」
「させて、の間違いでしょ」
「人聞き悪いな。オレは一度もそんなこと言ってないぞ? マサコさんのことだってちゃんと名前で呼んで、ばあちゃんなんて言わなかった」

きれいに出来の悪いごまかしを与えていい子いい子してやったわけだ。
あいかわらずお優しいこって、と舌打ちをしてから一松はふと違和感を抱いた。さっき。そうだ、さっき少しおかしいと感じたのだ。このお人好しならこうするだろう、という予想がずれて。
話を聞いて、今更浮気相手になにかしても意味はないと諭して、それで終わりにするものだと思っていた。
それなのにわざわざ手間暇かけて、子供が信じたくなるような話をでっちあげて、何度も会って。そう、服装を整えて、若く装ったのは少しでも親近感を得るためだろう。そうまでしてなにを。

鼻歌を再開させた二番目の兄は、もう口を開く気がないらしい。
犯人はわかった。目的も。そして事件がもう起こらないだろうことも。曾じいさんの浮気にショックを受けていた子供だって、望んでいた優しい物語を手に入れられてめでたしめでたしだ。それが本当でなくとも。
もう一度ポケットから取り出した飴を口元へ持っていけば、ぱくりと唇が開く。手では受け取らない。言葉は未だ飾られていない。つまりこのぽんこつの頭はまだ動き続けている。

 

◆◆◆

 

翌日、一松が目覚めた時にはすでに隣はもぬけの殻だった。
出かけようとしていた末弟に確認すれば今日も服を借りて行ったという。らしくない服着てどうしたんだろうね、恋人でもできそうなのかな。おざなりな返事をしながらサンダルに足を通せば、スニーカーにすればと忠告が降ってきた。

「なに、急に」
「運動とかしたくなるかもじゃん? 走ったり、ほら、足を蹴りあげたり?」

あからさまに喧嘩を示唆する弟は一体なにを予想しているのか。どこかわくわくした面持ちを隠そうともしないあたりが末っ子らしすぎてため息が出る。

「そんなんじゃないから」
「ふ~ん、まあそれならそれでいいんだけど。ボク達ってすごく有名でしょ、この辺じゃ。だからちょっと変なことしたり見知らぬ相手と親しくしてたらすーぐ噂になるよね」
「……そうだね」

紫色のスニーカーに足をつっこめば、いってらっしゃいと満足そうな声がした。人を使うことに躊躇がないあたり、本当に甘やかされている。末の弟、ということでつい甘やかしている一員である一松が言えることではないが。
トド松に知られれば鼻で笑われそうなことを考えつつ足を動かせば、いくらも探さぬうちに最も弟達に甘い兄を見つけた。隣にはあいかわらず距離の近すぎる子供。十三歳と言われてもパッと見た体格だけなら成人男性であるカラ松とさほどかわらない。確かに薄い腹や長細い手足は成長途中のものだが、つまりはこれからもっとでかくごつくなるのだろう。叩くなら今だ。マウンティングだ。喧嘩だけは得意な長男の声が脳内でそそのかしてくるのを必死で聞かないふりをして、そっと近づく。
どうせカラ松は気づいているだろうけれど、一応。

「――だから、とても喜んでいたよ。ぜんぶキミのおかげだ」
「誤解が解けてよかった。オレはなにもしてない、がんばったのはおまえだろ?」

昨日一松が作り上げた、都合がよすぎて出来の悪すぎる話と似たような、彼にとっての真実をイタリアの家族にも伝えたのだろう。あちらがどう受け取ったかは知らないが、少なくとも海外に一人滞在している子供を不安がらせるような対応はしなかったらしく、大袈裟なほど感謝の言葉を繰り返している。
大好きな曾じいさんは浮気をするような人間ではなく、曾ばあさんは裏切られてはいない。遺産相続は滞りなく進み、昔の愛人に遺産をなんて言う人間はいない。すでに死んだ人間の望みなんて、本当のところは誰にもわからない。

「だけどカラ、キミのおばあさまは良かったのか? なにもいらないなんて」
「思い出があるだろう? それで充分だ」
「っ、おばあさまもキミも奥ゆかしすぎる……ヤマトナデシコだな、本当に」

怖気の走る会話を繰り広げながらも子供はカラ松の手を離さない。なんなら指先に唇なんてあてている。
何歳だと思っているのか知らないが、そいつはとっくにハタチを超えたおっさんで、おとぎ話が必要だろうなんていっぱしの大人気どりで口説いてるおまえを子供扱いしかしてないからな。いくらなんでも哀れだな、と子供に同情しつつ一松は会話の流れから運動はせずにすみそうだと一息ついた。思っていたより大人しい性格のようだ。猫をさらったり電話を絨毯爆撃したりと行動力ばかり目立っていたので、もっと脳筋かと思っていた。
これならばサンダルで良かった、と慣れない足元に視線をやれば妙にはりきっていた自分に気づいて気恥かしい。別に協力してくれと言われたのがうれしかったとかはない。ないったらない。力は強いくせにぼんやりしているから不意打ちに弱いあのバカに、後からざまあみろと笑ってやるためにここにいるのだ。そう。あんな穴だらけの話を信じたがる脳筋外国人なんて、すぐちょっとしたことできれるに違いないと思っていたから。
ぐるぐると脳内を走るのは誰かへの言い訳で、誰かというかどうも自分宛かもしれないけれど一松にそんなことをする義理はないのできっと誰か別の。自分に言い訳なんてする必要がない、から。

「恋人は黒い猫だと歌っていたよね、カラ」

不穏な声音が耳に飛び込んできたため、一松は再度視線を二人に向ける。
ひどく甘ったるい、異国でできた友人に向けるにしては露骨すぎる感情がしたたった音。

「キミを初めて見た時、美しい黒猫のようだと思ったんだ。ねえボクの黒猫、ボクの最愛。こんな不幸な思い違いでもキミに出会うための試練だと思えばなによりも素晴らしい運命だよ」

すごいな十三歳、しかも自国の言葉じゃない。一松は六年間習ったはずの英語であってもこうぺらぺらと口説き文句なんかでないので、純粋に感心した。口説いているのは残念な兄だが、別にあの子供が残念になるわけではない。
しかしいくら流暢に日本語を扱えたとしても、頭のよく回っている今のカラ松には太刀打ちできないだろう。きれいな言葉で適当にごまかされてうまくあしらわれる未来しかない。可哀そうにと野次馬根性丸出しで楽しく二人を眺めていた一松は、なにも言葉を発しないカラ松に首をかしげた。昨日までの感じから、子供をたぶらかして粗の目立ちすぎる話を信じ込ませていたんだと思っていたのに。
じわじわと赤く染まっていく耳。へにゃりと下がった眉。右に左にと忙しなく動く視線。ひけた腰。
一松を見つけたとたん、ぱっと輝いた表情がもうダメだった。

「っ、おいなにやってんのおまえこんなとこで!」
「……誰だ!?」
「そっちこそ誰かな、はじめましてボーヤ」

カラ松の腕を引き、身を寄せる二人の間に無理やり身体を割り込ませ、なるべく人相が悪く見えるように笑う。会話を聞く限り乱暴ではないし脳筋でもなかった、できれば勝手にいろいろ察して早合点していただきたい。一松は上二人程荒事に慣れてはいないし、三番目ほど思いきりよく暴れることも得意ではない。松野家は上三人が血の気が多いだけで、下三人は穏やかで平和主義者なのだ。実際のところ。
それでもあまりにおたついているカラ松を見ていられなくて動いてしまったのだから、この舞台に乗るしかない。

「こいつになんの用。公共の場であんまり迫ってやらないでくれる? 慣れてないんだよね」
「……いちまつ」

背後にかばったカラ松が指先だけでそっと一松のジャージを掴んだ。ぺたりと背中に身体を沿わせ、肩越しに可哀そうな子供をちらりと見て。

「なにもしてない。この子はともだち」

あどけない口調と安心したと言わんばかりのゆるんだ声音。全体重をかけていますよ、とあからさまに甘えた体勢。

「カラ、え、あの……お、お兄さん、か?」
「従兄だ」

わあ初耳。
ぺろりと嘘をつかれて一松も顔には出さないが大変に驚く。おまえそんな普通にあっさり嘘つけたの。いつから。
一松の耳にも嘘のようには聞こえなかった言葉は目の前の子供にも同様に響いたようで、いきなり現れた血縁者にどうしていいのか困りきった顔をしている。確かにそうだろう。ここまで流されるように舞台に立ってしまった一松も、この後どう処理していいかわからない。カラ松はどういうつもりでいるのだろう。勝手に勘違いして諦めてくれればと願っていたが、どうやら食い下がってきそうで一松はうんざりした。

「いちまつはな」

同じくここで終止符を打つのだろう、カラ松が口を開く。
ジャージにすがるようにひっかかっていた指先がするりと伸ばされ一松の腹の前で組まれる。後ろから抱きついたまま声を弾ませたカラ松は、よくわからない呪文を唱えた。
なぜこんな言葉で諦めるのかわからない。おまえもっと食い下がる気だっただろ。いやその方が面倒でないからいいのだけれど。でも。

「オレに白い猫をくれるんだ」

キミはくれなかっただろ?
しょんぼりと去る子供の背中を見送りながら逃げないように足を踏みつけてやれば、涙目で名前を呼ばれた。
もうまるであどけない声ではない。クソみたいに兄貴ぶった、いつもの。

 

◆◆◆

 

黒猫のタンゴ、って曲があるんだ。その中の歌詞だな。
口説き文句のボクの黒猫ってなに、と問いかければ、猫のことは食いつくなと笑いながら答えた。クソか。

「じゃあ白い猫って?」
「んん? ああ、あれはイタリアの民謡でな、黒い猫がほしいなら白い猫をちょうだいって歌詞が」
「つーかあんたなんで急にあんなきょどってたの」

つらつらと垂れ流していた言葉がぴたりと止まり、隣を歩いていたカラ松が気まずげに視線を彷徨わせ始める。大変にわかりやすい。

「まさかと思うけど、そういう意味で好かれてたことに気づいてなかった、とか言わないよね!?」

そこまでぽんこつではないと希望的観測から問いかければ、真っ赤に染まった頬が目に飛び込んでくる。茹だり過ぎた蛸かよ。ぐにゃぐにゃじゃねえか。

「いや、だってそんな、あの、……男、だし」

そっりゃもうべたべたと肩だの腰だのに腕を回され、話す時は顔を近づけ、耳元で囁き、事ある毎に唇だのこめかみだのに触れ、指先に口づけながら愛しげに見つめ。
という行動を毎回とっていたにも関わらずまったく意識すらされていなかったなんて、さすがに一松も同情した。何度目だあの子供に同情するの。まあ相手がこれだし。
男同士だからといって油断するなと学生時代からさんざん言い聞かされているくせにまだわかっていない。今回も三男と末弟にさんざん説教されればいいのだ。内緒にしてやる義理はない。
なんせこいつはまだ隠している。

「ねえ、なんであんた佐々木さんとこの孫設定にしたの」
「ん? 電話をとったのがそこだったからだぞ」
「最初梅田さんとこで出ようとしてたよね。なのに途中から梅田さんのとこに近寄るのもやめた」

カラちゃん最近元気、と顔をあわす度に聞かれる一松の身にもなってほしい。
橋の上で生産性の欠片もない逆ナン待ちをしていると思っていたこの兄が、独居の老人宅でまるで猫のように構われていると知ったのもそれなりに衝撃だったのだ。まさかカラ松ガールズが実在したなんて。そして孫というよりもいっそアイドルのように愛されていたなんて。

「最近、梅田のばあちゃん元気なかったらしいじゃん。カラちゃんも気にしてしょっちゅう顔だしてくれてた、って聞いたよ」
「一松も婦人会の名誉会員みたいだな。共にアクリルたわしでも編んでみるか?」
「母さん喜ぶね。それで?」

まだ戻っていない。だから下手なごまかしには乗ってやらない。
昨日、事件は解決したはずなのに、少なくとも犯人はもう何もしないだろうと確信していたくせに考えることをやめていなかった。
今日、会う必要もなかったあの子供にまた会っていた。きれいな思い出で、充分、思い出だけで。何回彼に告げていただろう。ダメ押しのように。

「おれ、梅田のばあちゃんの飼ってる年寄り猫がタンゴっていうの、知ってるよ」

もうひと押し。
猫の情報なら一松は持っている。
婦人会でも町内会でもどこにもないけれど、猫のことだけなら。だからばあちゃん猫と呼ばれている灰色の猫がタンゴという名前であることも、元はきれいな黒い毛並みだったことも知っているのだ。
佐々木宅に飼い猫はいない。
黒猫を飼っていたのは梅田のばあちゃんだ。

「タンゴはな、一松。五月五日に拾われたんだよ」

そういうことだから。
ダンスなんて知らない。歌なんて聞かない。かわいい黒猫なんて一時の愛を囁かれたりなんてしていない。彼には彼の、彼女には彼女の、それぞれの生活がある。

「端午の節句、にちなんでタンゴ。イカした名前だろう!?」
「……健康に過ごせそうで、いいよね」

あまりに堂々と言いきられたので、一松は踊らされてやることにした。仕方ない。
けして隣のぽんこつのためではない。今後もこのバカの面倒を見てくれるガールズへの感謝の念だ。あと水ようかんおいしかった。

「それでこそ一松だ。おまえはオレの自慢の弟だぜ!」

けっしておまえのためではない。
だからそのうれしそうな顔をやめろ。いや、でもなんとなく久しぶりに見た気もするのでもう少しだけはしていてもいい。言葉を裏切った、まるで兄ぶらないその顔でいるなら一緒に踊ってやるのもやぶさかではない。

 

白い猫をやる予定はないが白いラムネをポケットから取り出し口元に近づければ、なんの躊躇もせずぱくりと指先まで食われた