やさしい悪魔 - 1/2

「おーい松野、先生呼んでたぞ。悪魔の方じゃない松野」
「一松は悪魔じゃないしオレはギルトガイの方!」
「なんでもいいから行けよ」

半笑いのクラスメイトにもう一言文句をつけてやろうとしたのに、横で一松が肩を押すからカラ松は仕方なく職員室へ足を向けた。

「ちゃんと否定した方がいいぞ、ああいうの」
「別にいいよ」

無気力な声によけいムキになるカラ松の隣を歩きながら、いかにも面倒だと言わんばかりに一松は鼻を鳴らした。

「悪魔なのは本当だからね」

ぎざぎざした歯を見せつけるように笑う顔は、なにか良からぬことを企んでいますと主張せんばかりだ。顔の作りだけならカラ松と似ているのに、浮かべる表情が違うだけでまるで違う二人にしか見えない。
優等生かと言われると否定しないわけにはいかないが、実際一松はそこまで手のかかる生徒というわけではない。そりゃカラ松と二人、こっそり授業をさぼったこともあれば授業中もよく寝ている。だけどまあそんな生徒は珍しくない。
テストの点数はいいが授業態度と実技で内申はあまりよくないと、担任に叱られているのを横で聞いていたのはつい先日のことだ。まあその次にカラ松が、志望高校を早く決めろと発破をかけられることになったのだが。
それでも、一松は頭がいいし優しい。いつでもカラ松の隣にいてくれる親友だ。

「なんですぐそういうこと言うんだ」

親友を悪く言われるのは嫌だ。それが一松にかなわないとひがんでいるヤツらの悔し紛れの悪口であっても嫌なのに、本人がすぐ卑下するなんてもってのほかだ。
何度も繰り返している会話なのに一松はちっとも改善してくれない。おまえが好きだから他のヤツらが悪く言うのが悔しい、と怒るカラ松を見てはあいまいに笑うばかりで反省の色が見えない。

「仕方ないでしょ。悪魔はこっちじゃ嘘はひとつしかつけないんだよ。だからもう嘘つけない」
「へー、なんでひとつだけなんだ?」
「それは知らない。好きなだけつけたら誘惑し放題魂獲り放題だからじゃない? なんせ悪魔なんて騙すのが本職なんだし」
「魂? 食べるのか??」
「うん。高潔な魂が堕落したのがサイコーに美味いから、早くおまえ堕ちちゃってよ」
「一松がそうしてほしいならがんばるんだけどな、落ちるってどこからだ? あともうすぐ試合だから怪我するのはちょっとな」
「あー、親善試合だっけ。なに、レギュラーとったの」
「おう! 良かったら応援きてくれよ」
「やだよ、めんどくさい。それに悪魔の方の松野が来たってなったら他のヤツらの士気が下がるよ」

ひひ、と笑う横顔は全然悪魔じゃない。

「試合勝てるようにしてやろうか?」
「ん? 自主練つきあってくれるのか! 助かる!」

そーゆーんじゃないんだけど、と呆れたようにため息をつかれたってカラ松は知っている。照れ屋な親友は、率直にがんばれと言うのが苦手なのだ。それでもなにかカラ松のためにしたくて、こうして不器用に手を差し伸べてくれる。
気にしないと言うくせに、実際呼ばれても飄々としているくせに、士気が下がるとかそんな。ひどいあだ名をつけている方が悪いのに、ちゃんと周りのことを思いやって。

「……優しいなぁ」
「!? 唐突になに」
「うん、おれおまえが好きだな、一松」

頭がよくて優しくて繊細な、カラ松の大切な親友。いつからか気づかぬうちに傍にいて、今ではもう彼がいなかった時のことなど想像もできないくらい。

「……バカだねあんたは。そういうキラキラしたのはさ、神とか天使とかに捧げなよ。そうしたら慈悲で、死後の魂、神に召されるかもよ」
「おまえに言うのはダメなのか?」
「おれにくれても腹の足しにならないし。堕落した魂しか食べらんないんだから」
「詳しいなぁ、さすが一松だ」
「ひひ。なんせ悪魔ですから」
「なんでそこで開き直っちゃうんだ! 一松は星座だって詳しいけど、じゃあ星座ですってならないのに」

あと数学も教えてくれるし古文も得意だろ、猫のこともすごくよく知ってる。悪魔のことだけ詳しいわけじゃない。
胸を張って言いきれば、笑っていた口がぎゅうと引き結ばれ眉間にしわが寄った。力の入ったまぶたがぴくぴくと動く。

「いちまつ?」
「っ、ばっかじゃねーのおまえ。ほんとうざい。おまえのそういうとこがほんとに」

ぐっと言葉が止まって、いち、に、さん。は、と短いため息と共に吐き出されたのは続きの言葉ではなかった。

「先生のとこ行けば。じゃーね」

ひらひらと後ろ手に手を振る一松を見送ってからカラ松は職員室のドアを開いた。
きっと新入生歓迎会の話だろう。

 

◆◆◆

 

そういえばなんだったの、昼。問われていることの意味がわからず首をかしげれば、舌打ちと共に呼びだしと追加される。

「ああ、部の話だ。今度の新歓で新入生を三人入れないと休部になるって」
「バスケ部そんなに人数いなかったっけ」
「オレらの学年は多いんだけどなぁ、二年が二人なんだ。五人いないと部活としては認められないらしくって」
「部長さんは大変だね」
「一松だって部長じゃないか、天文部」
「運動系とは違うよ」

大変さなんてそんなに変わらないだろうに、要領が悪いのかどうも部長としてあたふたしているカラ松を、一松はいつも労ってくれる。これで優しいつもりじゃないんだから、一松の優しい基準は相当に厳しい。好きになるなら優しいヤツがいい、と以前聞いたけれど、彼が満足できるくらい優しい女の子なんているだろうか。

「……バスケ部が休部にならないようにしてやろうか?」

にやりと笑う一松に、負けじとカラ松も笑いかえす。
これはお得意の遊びだ。いや、遊びの形を借りた励ましか。カラ松が困っていたり悩んでいたりするといつも、沈んだ心に寄り添うように一松が声をかけてくれる。
おまえの願いをかなえてやろうか? おまえが望むならなんだってしてやるよ。
低い声が胸の奥をくすぐるように甘く囁くから、いつだってカラ松は大丈夫だと前を向ける。本当に一松がどうにかしてくれるなんて思いもしない。一介の中学生にできることなんてたかが知れている。それでも、言葉をくれることがうれしいから。

「このオレがこんなことでおまえの力を頼るとでも?」
「うっわでたよ厨二」
「オレはもう中三だぞ?」
「ハイハイそーですね」

赤点をとれば部活禁止、と言われ泣きそうになりながら勉強していたカラ松につきあってくれたのは一松だ。どこがわからないのかすらわからないと泣きついて以来、おまえ今日のわかってないでしょ、と教科書片手に地道に教えてくれて。
力はあるけれど素早さの足りないカラ松に、ガードもいいけどスリーポイントの練習したらと提案してくれたのも一松。どうせすぐ慌てるんだからさ、ゆっくり狙える位置から投げるのもありでしょ。力だけはあるんだし。体育館の居残り自主練を続けられたのは、壁際で本を読みながら待っている彼の姿があったから。
ちょっといいなと憧れていた女子に呼びだされて期待して向かい、バスケ部エースへの手紙を託されて戻った時にはなぜか猫を託された。温かくてやわらかい生き物を撫でていたら、まあ仕方ないなという気持ちになれた。エースと彼女がうまくいったのも大きい。二人してぴかぴかの笑顔でおまえがキューピッドだよなんて言ってくれるのだ、笑顔にならないわけがない。黙って隣にいた一松は、どうしてか怒っていたけれど。

おまえの願いをかなえてやるよ。
勉強しなくてもテストでいい点がとれるように、練習なんて面倒なことしなくてもバスケでヒーローになれるように、あんな見る目のない女だけじゃなくどんな女でもおまえにイチコロになるように。すらすらと並べ立てられるお願い事はあまりに荒唐無稽で、そのくせ真面目ぶった顔で、悪魔は嘘をひとつしかつけないからねとうそぶくのだ。
おまえが願えばなんでもかなえてあげるよ。

「ねえカラ松、本当にいいの? 一年が入部しなきゃバスケ部なくなっちゃうんでしょ」
「ん? そうだな、じゃあ新歓の出し物一緒に考えてくれ。バスケが楽しいなって思わせたらこっちの勝ち、だろぉ!?」

珍しく確認されて不思議に思いながらも、カラ松は明るく笑う。常なら一度断ればおしまいの言葉遊びだけれど、きっと本当に心配してくれているのだろう。少し寂しいけれど別に死ぬわけじゃなし、またやりたい生徒が集まったら復活するだろうと気楽に構えている自分が薄情なのかもしれない。
こういうところが、本当に優しい。

「オレも天文部の一緒に考えるから、イカした勧誘しようぜ!」

バカだクソだぽんこつだ、と口だけは忙しなく動くのに一松の目元はやわらかく笑んでいるしカラ松の肩を叩く力は弱い。だから大丈夫。一松がいるから大丈夫。
がんばってもなにをしてもかなわない願い事なんて無視してしまってもいいんだ。

 

 

 

松野、進路についてだが本当におまえはこれでいいのか。
わかった。無理はするなよ。確かにおまえは勉強がそう得意じゃないからこういう進路もいいのかもしれないな。
親御さんは賛成してくれてるんだな。じゃあ。

 

 

 

「おれ、言わなかったっけ」

がちゃん、と自転車のかごを掴んだ一松がじとりとした目で睨んでくる。悪魔呼ばわりされる人相の悪い顔とぎざぎざした歯を見せつけるようにカチカチと鳴らすけれど、今更そんなものカラ松は全然怖くない。

「おまえが願えばかなえてやれるよ、ってそりゃもう繰り返したと思うんだけど。ねえ、なんでこんなことになってんの」
「こんなこと?」
「っ、だから、なんでバイトとかしてんの。部活休んでんの。高校行かないってなに。おまえ」
「一松と同じ高校は、オレ頭そこまで良くないからムリかなあ」
「んっなこと言ってねえんだよ!!」

ごまかすなと怒鳴られてもそんなつもりのないカラ松は、他にどうしていいのかわからない。
きれいに配り終えたことを確認してもらってから扉を出て歩きだすと、扉の傍で待ちかまえていた一松もするりと隣をついてくる。猫みたいだな、と言っても今は怒られそうだから心の中でだけ。

「バイトは前からやってたんだ。新聞配達は学校の許可もらったらできるんだぞ、知ってたか? 朝だけだったんだけど、最近人がやめたから夕方も頼まれて。部活はさ、早いとこはもう引退してるし、うち三年は多いだろ。部の皆も大丈夫って」

前は走ってたんだ体力作りに。今は必要なくなったから自転車を借りてるけど。

「働くの結構楽しいぞ。おれ勉強苦手だし、バスケでどっか推薦もらえるほどの実力もないし、じゃあいっそ就職しようって」
「なんで」
「いやなんでって、だから」
「おれ言ったよね。願えばかなえてやるって」

普段眠そうに半分閉じられている目が、裏からライトでもあてられているみたいにビカビカと光る。夜店の灯よりまだ強い、そうだネオン。ピンクや赤の光が入り乱れても、カラ松の目を焼くのはいっとう一途な紫色。
だらしなく曲げられた背筋はそのままに、けれどねめつける目の強さだけは向けられたことがないほどの力で。下から覗きこまれる形になるから、視線をそらすわけにもいかない。

「なんで言わない」

カチカチと音がする。一松が歯を鳴らしているのかと思って見ても、唇はぐっと引き締められたままカラ松の返答を待っている。じゃあこの音はどこから。

「おまえが自分から望まないと、おれはなにもできない。そういう風になってるから」

カチカチカチ、カチ、カチカチカチカチ。
夜の方が冷えるといっても今はまだ夕方、そもそも梅雨あけきらぬ六月だ。寒いわけがない。雨に振られたわけでもなけりゃそこまで薄着でもない。あえていうならかいていた汗が冷えた程度で、けれどそれだけでこんなに。
こんなに震えるわけがなくて。

「……だ、だって」

なんで目の前の一松がこんなにも怖い。

「だって、言ってもどうにも、ならない……っ」

本当は。
本当の本当は、バイトはしんどい。嫌じゃないけど朝早いのはつらかったし夕方一松とだらだら帰って寄り道とかしたい。
勉強は苦手だけど一松が教えてくれたから前よりわかる。教えてあげるよって言ってくれるから嫌じゃない。
バスケで身を立てるのはムリだってわかってるけど、でももっとやりたい。高校に行ってからも。バスケは楽しい。
高望みだけど、でもできたら一松と同じ高校に通いたかった。朝一緒に登校して、たいした内容のない話をして、昼休みは弁当を食べながら野良猫を構いたい。部活終わりが重なった日は一緒に帰って、たまには寄り道なんかもして、毎日ずっと一緒に過ごせたら。

「言ったってかなわないことなんて、く、口にしても、意味、ない」

目が熱い。発熱しているように熱いのにどうしてそこからこぼれる水はこんなに冷たい。
はひはひと息継ぎをしながら必死で告げる言葉は一松に届くだろうか。ちゃんと、彼が自分を気にかけていてくれているのがうれしいと伝わるだろうか。
だってきっと今も、最近カラ松の様子がおかしいからと来てくれたんだろう。教えていないバイト先に現れるくらいに探して、一生懸命に。

「でも、ありがと」

カラ松と同じ、なんの力も金もない中学生なのに。それなのにこんなにも、なにかをしようと思ってくれた。
ごめんな、だって言えなかった。お金がないって言えなかった。死んだ父さんが悪いわけじゃない、母さんは精一杯がんばってくれてる、これ以上はカラ松のわがままでしかない。
担任だって母さんだって心配してくれた。本当にいいのかって。でも奨学金の返済もできないんだ。カラ松が一松くらい頭が良ければ、バスケで推薦がとれるくらいうまければ。もしかしたらもしかしたらもしかしたら。
でもやっぱり母さんは新しい旦那さんと幸せになってほしいし、もうすぐ妹も産まれる。ただでさえコブつきなのに学費まで面倒みてもらうわけにはいかない。ずっとがんばってきてくれた母さんが幸せになりそうなのに、カラ松がその障害になるなんて絶対に嫌だ。ちょっとでも面倒だなって思われたくない。

寂しくないかと問われたら寂しい。お互いのことだけ考えて身を寄せ合っていた母親が違う人に意識を向ける。カラ松のことだけを考えていてくれたはずなのに、今はもうあの人がいない世界はありえないなんて。
母親の中からカラ松への思いがなくなるわけじゃない。わかってる。自分だって同じだ、母親のことしか思っていないなんてことはない。二人ぴったりと寄り添って生きてきた事の方が不自然なんだから、これは健全な生活への第一歩で。
でも、寂しい。だからうれしい。一松がこんなにもカラ松のことを考えてくれていたことに、なにかできないかと一生懸命になってくれることに。

「いちまつ、うれしい」

ありがとう。
おまえが傍にいてくれることがずっとずっとうれしい。

「……バカかよ、おまえ」

かなえてやるって言ってるのに、どうして。
悔しそうに顔をしかめた一松はぎゅうとカラ松の手を握った。手をつないで歩くなんて小さい頃に戻ったみたいだ。気恥かしいけれど、でも温もりを自分から手放すのはもったいなくてできない。夕日に照らされた長い影が二人分、ゆらゆらと揺れる。

「ねえ、本当にないの、おれにかなえてほしいこと。なんでもいいよ」

なんでも、なんて簡単に言うなあとくすぐったくてカラ松は笑う。
こうして隣を手をつないで歩いて、高校に行かないと知れば我がことのように心配してくれる。そんな親友にこれ以上なにを望むんだ。照れ屋な一松の精一杯だとわかっているからこそ、カラ松はふにゃりと顔をゆるめた。
本当はしたいいろんなこと。全部難しいいろんなこと。
ムリをしたらできるだろうけれど、そうしないことをカラ松が選んだのだ。だから大丈夫。

「大丈夫だ」

一松にずっと傍にいてほしい。
さすがに親友といえ口にするのは気恥かしくて、カラ松はつないだ手を握り返した。
おまえがいてくれたらそれだけでいいんだ。

 

 

 

お願い言ってよ
かなえてあげる だから堕ちて おれのとこまで落っこちてきて
だけど堕ちないで ずっと言わないで
願い事なんてかなえてやらない