第一回石神千空会議

ふと気づけばドアの前に立っていた千空は、思わずまばたきした。
上下左右を白い壁に囲まれた狭い部屋、というよりいっそ廊下をふさいだような形のこの場に自分はいったいどうやって来たのだろう。目の前のドア以外の出入り口はなく、しかし千空は今まさに入ろうという態勢で立っている。
後ろ歩きで出てきた? なんのために。
そもそも先ほどまで、千空の誕生日という名目の新年会に出席していたのだ。普段はそれぞれの生活を送っている仲間が一堂に会する機会は、最近はめっきり減った。だからこそ、常は飲み会より研究を優先する千空も顔を出しさんざ騒いでいたというのに。

「……陽がマイク離さねえって銀狼が騒いで、金狼がルールだっつって」
「おい、誰かいるんなら入ってこいよ」

直前の出来事を思い出していれば、ドアの向こうから呼びかけられる声。
聞き覚えがある。これはホワイマンが初めて自分たちにコンタクトをとってきた時の、千空の声音をまねたものではないか。
ホワイマンたちは月から去り、石化の脅威はさったはずだ。再度コンタクトをとるなら、気まぐれにこちらについてきた個体を通じて行動するだろう。では別の生命体が。
気ばかり急くが焦っていいことはない。会話できる相手がいるなら交渉だ。脳内でわーわーうるさいメンタリストを黙らせながらドアを開けば、目の前には鏡があった。

「あ゛!?」

いや、違う。千空と同じ顔をした人間が椅子にかけていた。
窓のない、白い壁に囲まれた小さな部屋に安っぽい机と椅子が二脚。ドアは千空の背後、入ってきたものだけ。

「よう、いつの俺か知らねえが」
「どういうこった」
「俺は気づいたらここにいて、『石神千空が来るから待っていろ』って指示書があった。テメーは?」
「そのドアの前に立ってたな。だが指示書はなかった」

千空と同じ顔をした男が差し出した紙には、確かに口にした一文が記されていた。だがそれだけか? こんな文章を信じて誰が来るかもわからないのに待っていたというのか?

「信じるかどうかはテメーに任せるが、室内は調べつくしたしテメーが入ってきたドアもこちらからは開かなかった。指示書の通りなら来るのは『石神千空』らしいが、そりゃ俺だ。ならどういうこった、と考えていりゃ開かねえはずのドアが開いて」
「入ってきたのが俺、ってわけか」

なるほど。石神千空、と名乗る室内に居た男は、己と異なる時間軸の自分が来たのだと考えたのか。
タイムマシンの関係で事故が、とちらりと考えるも千空の知る限りの時間ではまだ起こっていない。今後、起こる可能性はあるがそれは今ここで考えても仕方のないことだ。

「で、俺が来たからって何も起こらねえようだが」
「同一人物が顔を合わせないように片方が世界から放り出されるとか消滅するとか、まあ何らかの動きはあると思ってたんだがなぁ」

立ちっぱなしも落ち着かないと向かいの椅子に座れば、同意を求めるようにニヤリと笑まれる。なるほど、確かにあまりいい人相とはいえない。悪だくみしている時のキミ達はなかなかの悪人面だぞ、とコハクに言われたことを思い出す。似たような表情で楽しそうに笑っている男が隣にいないことが、妙に惜しまれた。ゲンがこの場に居れば、千空ちゃんが二人と大騒ぎしていただろうか。久しぶりだと皆に飲まされ真っ赤な顔をしていたから、酔ったせいだと勝手に納得したかもしれない。

「ところで今更だが、テメーは石神千空か?」
「今更すぎんだろ。石神千空だが、そっちは」

手持ち無沙汰にボソボソと情報交換する。己しか知らないだろう過去、クラフトした物、設計図。違う時間軸の自分なら過去か未来だが、千空にはこんな部屋で己と同じ顔の持ち主に会ったという記憶はない。目の前の男もそうらしい。ならば時間軸の違う同一人物説はありえないのではないか。それとも部屋を出れば記憶を失う、などというご都合主義か。
しかし交換する情報に齟齬はなく、話をすればするほど同じ人物だという確信のみがふり積もる。向かいも同じ結論に達しているのか、うめき声をあげて机に突っ伏した。

「あ゛~! っくしょ、早く戻らねえと今日はゲンのヤツ酔ってやがったからまじぃな」

男もまた誕生日会という名の新年会をしていたと聞いてはいたが、今の発言はなんだかひっかかる。内容ではない。千空の記憶でも確かにゲンは酔っていた。自分たちがそっくりなように、目の前の男の世界のゲンもまた同じように酒が弱いのだろう。世界を飛び回る外交官様は日本に家を持っていないため、一人暮らしの千空が毎回泊めているのは双方合意の上だから問題ない。どうせ家に連れ帰るから、今日は酔っ払いの面倒もみてやるつもりだ。
だが、今のはなんというか。
久しぶりに仲間と会い盛り上がったから大目にみてやろう、という感じではなかった。
声がどうにもやわいというか、ぐずぐずしているというか、千空が生まれてこの方出したことのないような声音だ。自分の声帯にこんな妙な声をだす音域あっただろうか。

「隣で見ててやらねえとすぐその辺の男にベタベタされてやがるだろ。俺がいりゃ抑止力になるが」
「は?」

ベタベタ? 見てて? 抑止力?
テメーのところもか、と聞かれる意味がわからない。
酔って足元がふらつくことはあれど、そんなもの転がしておけばいいのだ。ゲンは自分の酒量を理解しているから前後不覚になるほど飲まない。というか、成人男性を見ていてやらないといけないとはどういうことだ。

「ゲンがそのへんの女にベタベタしねえか見張るならまだわかるが、あいつそんなことしねえだろ。ハーレムとかなんとか言ってやがったが、正直そこまで女好きってわけでもねえし」

銀狼の方がよっぽど、と言いかけ首をかしげている男に気づく。

「女だけで固めとく方が危ないだろ。そりゃコハクあたりと一緒にいりゃ安心だが、南やルリだとホイホイじゃねえか」
「いや女を餌に交渉とかしねえだろ、あいつは」
「交渉? 何言ってんだテメー」

あまりの話のかみ合わなさに、千空たちは思わず揃って指を立て考え込む。w千空ちゃんのwドン、と笑い転げている外交官が脳裏に浮かぶがテメーのせいだからな、これは。

「整理するが、テメーはゲンが酔っていたから早く戻りたいと言った。男にベタベタされるのを止めるため。ここまではいいか」
「おう。俺が目を光らせてりゃ寄ってこねえが、一人にすりゃすーぐ絡まれやがる。たいして強くねえくせに飲みたがるから、せめて俺の居る場所でだけ飲めつってんのに」

これだ。妙な違和感は。
内容は愚痴だというのに、男の声がどうにも甘ったるい。砂糖を無理やり口につっこまれたようだ。まるで恋人の話でもしているような声音なのに、内容はゲンの酒癖。そもそもいい大人が酒を飲むも飲まないも自由だろう。俺の居る場所でだけ、ってなんだ。テメーに何の権限があるというんだ。

「別に男がちっとくらい絡まれても問題ねえだろ。これまでだってあったじゃねえか」
「あ゛? 女だから問題なんだろ」

あまりに当然の顔をして言われたため、千空は反応に遅れた。いや、何をどう返せばいいのかわからなかった。
女。
メンタリストが、ゲンが、女?

「あんな体格の女がいるかよ」
「おい、そりゃ乳は小せぇが立派な女だろうが。あいつが気にしてるの知ってるくせにテメーまで男女扱いしてやるなよ」
「待て。待て、いや……男だろ。乳、なかったぞ」
「ふざけんなよ。マグマにやられた時見ただろ、手当して」
「見たうえで言ってんだ。骨格もなにもかも男だろ、あさぎりゲンは。俺は一緒に温泉も入ったぞ」

お互い怪訝そうに見つめ合い、それぞれ真実を口にしていることに確信を持つ。
つまり、こいつは。

「……テメーの知ってるあさぎりゲンは女、か」
「そっちは男っつーわけか」

違う時間軸ではなく、違う世界線の石神千空、ということか。
ようやく違和感に納得し、千空は安堵の息をついた。同じく目の前の『石神千空』も肩の力を抜いたらしい。同じなのに違う、のは正しかったのだ。

「なるほど。道理でテメーは焦ってねえわけだ」
「テメーは焦ってんのかよ」
「そりゃな。ゲンには俺がついててやらねえと……普段は問題ねえが、酔った時くらいは。まあ、別に、常ももっと頼ってきてもいいんだが」

もにょもにょと言葉尻を濁す『己』に、千空はどうにも尻のすわりが悪くなる。
これはあれだろ。鈍い鈍いと言われているが、ここまでわかりやすければ千空とてピンとくる。
別世界線といえ自分がゲンを、と思うとどうにも気まずいが、あれだけ親身に協力してくれる女がいればそういう気持ちになってもおかしくないのかもしれない。

「あ゛~、とりあえずそういうことは本人に言ってくれ」

そういうんじゃねえ、という叫びと共に目の前の人影は消え、壁に先ほどまではなかったドアが現れた。

 

◆◆◆

 

入るぞ、と一声かけてドアを開ければ今度は女が座っていた。
見慣れた緑がかった髪に赤い瞳。千空に妹がいればこんな外見であったかもしれない。

「よう、『石神千空』」
「テメーも『石神千空』か? 女の」
「俺にいわせりゃテメーが男バージョンの『石神千空』か、って話だ」

あさぎりゲンが女の次は石神千空が女らしい。何が目的かさっぱりわからないが、今回もドアは入ってきたもののみで開かない。

「確認だが、テメーの知ってるあさぎりゲンの性別は?」
「女だ。そう聞くっつーことは、この部屋の謎の鍵はそこらか?」
「まだわからねえ。ただ、俺の知ってるゲンは男で、前の部屋のとこは女だっつってたな」
「ほーん、テメーの他にも『石神千空』がいんのか」
「そいつが消えたとたんこの部屋に続くドアが現れた」

ひらひら揺らされる紙には前回と同じ『石神千空が来るから待っていろ』の文字。情報交換の結果、性別の差で少々の違いはあれど石化から復興までの道筋はほぼ変わらないことが判明。
前室と同じつくりの室内に、テーブルと椅子が二脚。鍵かどうかは不明だが、この現象を主体的に解くのは己だろうと千空は予想した。なぜなら自分だけが場所を移動し、複数の人物に会っている。消えた前室の男がこの後他の『石神千空』に会っている可能性もあるが、それは考えても確かめられないからどうしようもない。
目の前の女も似たような結論に達したのだろう、つまらなさそうにため息をつき頬杖をついた。

「酒もねえし謎もねえ。せっかくめかしこんだのに見るのは自分の男バージョンとかよぉ」
「んだよ。目当ての男でもいたか?」
「あ゛!? ゲンに決まってんだろ」

性別の差が明らかなため同一人物という気がせず、まるで妹でもからかうかのように口にした千空は、返ってきた答えに撃沈した。
決まってる、のか。なんでだ。そりゃゲンは悪いヤツではない。初期から共に過ごし身を粉にして千空の目標に協力してくれた。彼がいなければうまく進まないことは山ほど。会話も弾むし一緒に居て気まずくもない、なんだかんだ長いつきあいなのは気が合うからだろう。
だが、着飾った姿を見せたいというのは違う。それはなんというか、こう、好意があるというか。自分に好感を持ってほしい時にすることではないのか。そういえば先ほどの『石神千空』も、女のゲンに対して好意を抱いていた。この『石神千空』の世界のゲンも女だという。もしや女のゲンは相当にとんでもなくモテるのだろうか。

「テメーもゲンかよ……」
「仕方ねえだろ、あいつだぞ? とんでもなくお可愛いじゃねぇか」

真顔で言いきられ、千空は思わず引いた。お可愛くはないだろう、どこからどう見ても。これが恋愛脳というやつか。別世界線といえ、自分がこうなってしまうのか。

「つーか考えてみろよ、あんなに健気に俺のこと支えて働いてしてんだぞ。絆されねえ方がおかしいだろ。どんだけ冷てぇんだよ」
「別に冷たかねぇだろ。あいつにだって利があって協力してんだろうし」
「は? 本気か!? 真剣に考えてその感想が出るならちっとどうかと思うぞ、俺は」

あれもこれも、と指折り数えられ千空はつい後ずさった。確かにゲンの協力は大きい。だが、他の皆の協力も大きいしゲンだけ特別扱いすることではないだろう。
同じ千空といえ、どうにも女の自分は押しが強い。しどろもどろに反論すれば、呆れたとばかりに頭を振られる。

「俺は自分が女でなけりゃ良かったと思ったことはねえが、石世界で生き延びるには男の方が有利だと想像することはできる。そして、女体を使って生き延びる方法もあるって知ってる」

やるかどうかは置いておくが、な。
ぐっと張られた胸はやわらかな曲線を描き、ひらひらと動く手は小さい。千空が経験した苦労とはまた違う苦労をしてきたかもしれない、もう一人の千空。
獣の声に怯えはしたが、杠は大樹の傍で安心して笑っていた。戦える戦えないではなく、村の女は村に居る時点で居場所があった。南は司が周りからさりげなく守っていた。ニッキーは女扱いされないようにふるまっていた。
千空はコハクが認め、連れ帰った客人だった。ルリを助けた恩人だった。ではゲンは?
裏切り者で、権力者の庇護もなくただ一人ふらついているあいつは。女の、ゲンは。

「司の元に居りゃ安全だった。トップの女って思われてりゃ安泰だ、俺につく必要なんてない。なあ、テメーの世界じゃどうだった? 俺はあいつに助けられてばっかりでろくに返しちゃいない。科学は唆るが、あいつに安全を保障してはやれねえんだ」

ひどく実感のこもった声だった。コーラでは、小さい電球では、ゲンも唆っただろう科学では。クロムに夜を恐れずともよいと伝えてやれた科学の光は、そちらの世界のゲンを守ってやれないのか。
千空の知らないことを知っている、目の前の千空。
そうだ。司は優しい男だ。自分で復活させた人間の責任はすべてとるつもりだったろう。ゲンも南同様、女だからと不埒な真似をさせたりは。そんなことは。

「……だが、俺のゲンは男だ、から」
「おまえのゲン、かよ」
「ちっ、っげーわ言葉の綾だ!」

自分の世界のゲン、が縮まっただけだというのにおもしろそうに繰り返され、千空は思わず声を荒げた。
どうしようもなく俺のために生きてるのは事実だろ、と楽し気な笑い声を残し女の『石神千空』は消えた。目の前にはやはり新しくドアができている。

 

◆◆◆

 

男、女、ときて今度も女。

「テメーの世界のあさぎりゲンは男か? 『石神千空』」
「ああ、そっちは違うのか?」

今度はこちらから声をかければ、椅子に座った女はふてぶてしく笑って問いを投げ返した。

「俺の世界では男だ。ここの前の部屋じゃ女の俺に女のゲン、その前は男の俺に女のゲンだったからな。最後の組み合わせだろ」

三回目ともなればなれたものだ。軽く情報交換を行い、やはり復興までのロードマップはほぼ同じで千空の性別のみが違うとわかった。

「新年会の最中に気づいたらここ、も同じかよ」
「一定時間話してりゃテメーらは消えて新たにドアが現れる。確認はできねえが、元に戻ってるのかもしれねえ」
「部屋じゃなく廊下らしき場所に出、指示書もねえのはテメーだけだ。おそらく鍵はそっちだろうな」

誰が満足するおしゃべりすりゃいいんだよ、と伸びをする女は前室の女とひどく似ている。違うのは服装だけだ。二人とも最初に会った男の千空よりふてぶてしく感じるのは、苦手意識なのかなんなのか。

「あーあ、今日こそゲンを食っちまうつもりだったんだがなぁ」
「待て」
「あ゛? どうしたよ、んな青い顔して」
「食っちまう、っつーのは」
「なんだよ、まーだ純情科学少年気取ってんのか? いいかげん青年通り越してオッサンだろ、カマトトオッサンに引く手はねえぞ」
「気取ってんじゃねえ、科学のが唆るだけだ。って俺のことはいいんだよ、テメーだ。おい、いくらひょろがりでも成人男性どうこうできるわけねえだろ。犯罪はやめとけ」

女好きだと口ではペラペラ言っているが、ゲンは案外身が硬い。ハニートラップばっかりだよと嘆いているが、それなりに本気の女がいることを千空も知っている。それなのに浮いた噂のひとつもないのは、よほどかわすのが上手いのだろう。そのゲンを体で落とす、なんていくら女体を持っていても自分では無理だろう。では取れる手段は犯罪しかない。科学の力でゲンを手籠めにしても、待っているのは不幸のみだ。

「おい、別世界線といえテメーなんだぞ俺は。少しは励ますなりなんなりしろよ」
「無理だろ、女ってだけでどうにかなる力……あるか?」

失礼だなと怒っているが、冷静に己を顧みてほしい。重力に逆立った髪はろくに手入れもせず放置され、クラフトした化粧品も役立ってはいない。前室の千空はドレスアップしていたが、この部屋の千空は白衣の上にマントをひっかけた常の恰好。恋愛経験のない千空でもわかる。これはない。

「テメーの好みはきいてねえんだよ、カマトトオッサン。つーかまず犯罪が出てくるそっちのが脳内ヤバくねえか」
「似たような年齢だろ、俺をオッサン扱いするならテメーもオバサンっつーことだぞ」

女の自分が異性から見てナシだとなぜ本人に言い聞かせなければいけないのか。これはつまり、男の自分も女から見たらナシだと遠回しに己に告げているということなのか。いや、自覚はしている。しているが、だからといって口にしたいかといえば別にしたくない。

「せめてこう、ちっとくらいめかしこむとかしろ」

前室の女の千空を思い出して言ってやれば、ふんと鼻で笑われた。なんだこいつは。千空はこうも腹立たしい顔をして笑っていないはずだが。

「いいんだよ。ゲンは俺の髪を手入れするのもメイクするのも好きなんだ。あいつが俺を放置してるからこうなった、ってわかってるから真っ青になって走ってくる」

放置も何も、ゲンに外交官を任せたのは千空たちだ。世界中を飛び回り仕事している男に無茶を言うな。
もしやこいつは相当に身勝手なのでは、と千空が考えているのに気づいたのだろう。にんまり笑った女は、いいだろうと言い放った。

「俺の世話を焼くのが好きなんだ、ゲンは。羨んでいいぜ『石神千空』、テメーはしてもらえねえもんな?」
「いい年した男が男に世話焼かれたがるの、気持ち悪ぃだろ」
「誰も一般論なんて言ってねえよ。ゲンが、俺の、だ。気持ち悪ぃなんて今更、ずっと焼かれてたじゃねえか、傍で」

否定しようとした。はっきり。
そして否定できなかった。
千空にそんなつもりはない。ゲンは仲間で、特別扱いなんてしたこともされたこともない。けれど客観的に見れば、おかしなくらい健気に尽くされ世話を焼かれていたのだろう。
三回も振り返れば自覚もする。科学王国のリーダー、復興の旗印というだけでなく、ただの『石神千空』にゲンは心を砕き寄り添ってくれていたのだ。
だがそれとこれとは話が違う。

「だからっつってテメーがゲンを襲っていいっつー理由にはならねえんだよ。そもそも無理やり勃たせて挿入とか誰も幸せにしねえぞ」
「もうちっとテメーに自信もてよ、ゲンは俺に勃つから。あと、挿入すんのは俺」

指を丸い輪にし、もう一方の指をいれるジェスチャー。おい、世界線が違うといえ下品すぎねえか女の俺。

「俺があいつに突っ込むんだよ」
「……入れる棒がねえが!??」
「あるだろ! 科学の力が!!」
「んなことに使うんじゃねーよ!!」

思わず立ち上がり叫べば、あると思って偉そうにとなじられた。

「あっ、そうだテメー使う予定ねえんだろ? くれ。俺がちゃんとゲンと活用してやるから安心して棒を任せてくれ」
「ざっけんな、取り外し不可能だ。自分にあるものだけで勝負しやがれ」
「指だけじゃ届かねえとこまで突っ込みてえんだが」
「知らねえよ、そういうのはそっちで勝手に……おい、一応確認するがゲンは了解してんのか」

食っちまう、などと口走っていたことを思い出しおそるおそる確認すれば、女はすいと目を逸らした。
とってねえ。これは絶対ゲンのオッケーを得ていない。

「アウトだろ! 無理やりは犯罪だぞ!」
「ゲンは俺のこと好きだから無理やりじゃねえ!」
「どうせ妹扱いだろうが! つーかもし女として惚れてるとしても、テメーにつっこまれる予定だけはねえだろ!」
「男の尻には前立腺があるんだから快感が得られるだろ!! あるものは使え! 使わねえならなんのためにあるんだよ!!」

あまりにひどい主張は、けれど千空にとんでもない衝撃を与えた。
確かに前立腺はある。つっこまれて快感を得るためではないと思う、が、あるのだ。つまり男は尻で快感を得られる。千空とて性行為が子孫繁栄のためだけとは考えていない。恋人同士の愛の行為として、快感を得る行為としての一面もあると知っている。経験したことがないだけで。

「あいつにつっこまれても、これまで居た恋人の一人になるだけじゃねえか。なあ、見たことないゲンの顔、唆らねえか? 女につっこまれて気持ちよくてビービー泣くゲン、見たくねえか?」

なら尻につっこむこと自体は問題ない、のか? 痛いだけなら苦痛だが快感が得られるなら……お互いの同意の元であれば……。

「いや、同意とってねーだろ」

つい流されそうになったが留まれば、テメーこそ何も言えてないくせにと悔しそうな声が響いた。

 

◆◆◆

 

ドアがある。
女の千空が消えた後、これまでと同様に現れたドア。千空とゲンに関しては全パターンが出てきたが、これで終わるのだろうか。それとも今度はコハクが男であったりするのか。
覚悟を決めてドアを開けば、最初の部屋と同じく、男の千空が居た。

「あ゛~、石神千空だ。テメーは」
「これまでの部屋のやりとり、全部聞こえてたわ。『あさぎりゲン』を知ってる『石神千空』」

声が落ち着いている。感情を抑制することに慣れた声だ。眉間のしわが深く、肌ツヤが悪い。これまでの『石神千空』は全て同年代に見えたが、この部屋の男だけは少々年上に思えた。

「俺は、『あさぎりゲン』を知らない石神千空だ」

耳から入った情報をかみ砕くのに、時間がかかった。
知らない、とは。司を裏切らなかったのか。だが戦争は起こっただろうから、勝敗に関わらず顔見知りくらいにはなっただろうに。それとも目覚めさせられなかった? だがあの時点で司が千空を探すよう依頼できる相手など。

「テメーの予想通り、『あさぎりゲン』は石神村に着かなかった。ろくに道もない中、武器ももたず猛獣がうようよしてる森を通って無事な方がおかしい」
「っ、メンタリズムは」
「それはライオン相手に効果あんのか?」

ない。メンタリズムもマジックもペラペラまわる口も、ゲンの武器は夜の森や百獣の王相手になにひとつ役立たない。
石斧も火薬も槍もない。あいつが持っていたのは花と血糊袋。身を守る以前の話だ。

「復興までのロードマップは変わらない。ただ少し手間と時間がかかっただけだ」

俺は石神村の村長で、科学王国のリーダーで、ロケットも作るし月にも行った。語る声は己のもの、話す内容もおかしなことはない。千空の記憶にあるより時間がかかり、血も流れたのだろう。ただ男はあえて口にしなかった。彼の中では最善のロードマップ、これ以外は選べない道筋。
ゲンが居れば。
それは今この場でけして口にしてはいけない。
ゲンは魔法使いじゃない。千空のための便利グッズでもない。ゲンが千空に会わない世界も、協力しない世界も、敵対する世界だってあるのだろう。平行世界だ。ありとあらゆる可能性の中、千空とゲンに絞った世界の自分にだけ会ったのだ。
目の前の千空は、できる限りの事をした。彼の世界にゲンはおらず、可能性を夢見ることもない。

「後悔はしてねえ。皆せいいっぱいやった」
「ああ」
「俺は俺の世界で十分満足してる」

だがなぁ、と男は苦く笑った。ひどく年老いた、古いレコードが奏でるかのようなひび割れた音。

「テメーらが話していたような、たまに俺に寄り添ってくれる誰かが居たら……そりゃ嬉しかっただろうな」

コーラ一本で裏切って、笑って泣いて喜んで、たったひとつの電球の光をキラキラ瞳に反射させていた。寒い寒いと鼻先を真っ赤にし笑って、ドイヒー作業だと泣き言を叫ぶくせに妙な歌をうたって。いつの間にか村どころか敵も味方も丸めて捏ねてひとつにしてしまう、そんな。
ずっと千空の傍にいてくれた。笑って。

「だがそんな都合のいい存在は、いねえ」

 

◆◆◆

 

目を開けば宴会の真っ最中だった。
陽はまだマイクを離さず、銀狼はタンバリンを叩いている。カラオケセットは村のジジババが喜ぶかと思ってクラフトしたのだが、若者たちの方が石化前の曲を懐かしみアカペラで歌っている。

「……夢か」
「千空ちゃんのんでる~? そろそろギブ~?」

酒瓶を抱えた酔っ払いが危なっかしく酒を注いでくれるので、瓶ごと受け取る。顔どころか首も手も、どこもかしこも赤いゲンは倒れこむように千空の隣に座った。

「そろそろやめとかねえと明日つらいぞ。こないだもう二度と酒飲まねえつってたじゃねえか」
「え~そだっけ? おいし~したのし~からぁ」

機嫌よく笑うゲンに、つい夢を思い出してしまう。
こいつが女なら、まあ確かに責任をとるかもしれない。十代後半から二十代という盛りの時期を千空のために費やさせたのだから、男として当然の事だろう。他の男にベタベタされていたら身内として腹がたつだろうし。……うん、一部屋目と二部屋目の気持ちは理解できる。

「……でも男だからな」
「んん? そだよ~、おれおとこ~」

ふふふ、と照れたように笑う顔が妙に愛らしく見え、手の内のグラスを落としそうになる。
違う。そういうのではない。三部屋目が、あの女がああだこうだ言いやがったせいで謎のフィルターがかかったに違いない。

「千空ちゃん?」

とろりと滴るような声が、よっちゃった? と問いかける。
そうだ。酔っている。酔っているからゲンの唇がなんだかツヤツヤしているように見えるし、目もキラキラしている。どうせ揚げ物を食ったから油がついているのだし、酔って眠いから涙の膜が張っているのだ。それだけのこと。これまでだって何度も繰り返したシチュエーションで、家に連れ帰れば水を飲んで寝るだけ。翌朝、二日酔いに苦しむゲンに薬を差し出してやるまでがセットの。
ああ、でも、この男に突っ込みたいがために千空の棒をよこせなどと言う女がいるのだ。
気持ちよくてビービー泣く、のだろうか。感情豊かな男だが、そういえば気持ちよくて泣いている姿は見たことがないかもしれない。千空が見たことのないゲン。こんなに長い間共に過ごしたのに、見たことのない顔。
見ようと思えば、千空には指より奥に届かせるものがあるわけで。
やろうと思えば。

「ってちっげーわ!! 見ねえよ!!」
「お、おとこだって~」
「あ゛~、違うのはそこじゃねえ。悪い。テメーは男だ。わかってる」
「おれ、おとこ……ちゃんとおとこ……」

酔いのせいか言動が幼いゲンをなだめるも、男だ男だとぐずられ千空は天を仰いだ。なんだこれは。ちくしょう。どうして酔っ払いに絡まれなくてはいけない。いや、ゲンはそこまで悪くない。だが千空とて悪いことはしていないはずなのに。

 

誰も悪くはないけれど、あさぎりゲンが存在しない世界がある。

 

つるりと滑り込んだ自覚に腹の底が冷える。一気に酔いが醒めた。
そうだ、こいつはコーラばかりで酒などめったに飲まなかった。口をつけてもほろ酔い程度。今のようにグダグダになるような飲み方なんて、千空が月から戻ってきてから。石化の脅威が去った、と確信してから。
張っていた気を緩め好きに酔えるほどに復興が進んだ、と思えば酔っ払いの相手も苦ではない。

「せんくうちゃん、おれちゃんとね」
「あーあー、男だ男。わかってる」
「うん、みる? ほら」
「こら、こんなとこで脱ぐんじゃねえよ。部屋とってんのか? 俺のとこ来んのか?」
「おへや……おへやでぬぐ」
「そーしろそーしろ。あ゛~、まっすぐ歩けてねえじゃねえかメンタリスト! 待て、ほら」
「せんくうちゃんも? いっしょに?」

 

 

白状しよう。
べろんべろんに酔っぱらったゲンの面倒をみるのが楽しかった、のはある。未だに頼ることの多いメンタリストの世話を焼いてやるのは、自分が大人になったようで正直気分がいい。
おまけに、ふにゃふにゃになりながらも延々おめでとうとありがとうを繰り返してくれるのだ。もういいと言っても、おれがうれしいからとニコニコ笑って。
毎年欠かさず律儀に祝ってくれるのも、大したものじゃないけどなんて言いながらあれこれ用意してくれるのも。ゲンが居ない可能性を示されたからこそ、隣の温もりがよりいっそう大切に思えたのもある。
おとこだよ、と脱がれて熱い頬をひっつけられ、機嫌よく笑いかけられ。
まあその、勢いというか流れというか。最初は驚いていたゲンも途中から気持ちいいと声をあげていたので。
女の千空に棒を取られなくてよかったな、としっかりがっつり使った千空はしみじみ思った。

「……そういや泣き顔見てねえな」
「これ以上ドイヒーことするつもりだったの!?」
「ひどいことはしてねえだろうが」

惚れた相手にしたいことだけだ、と告げればすべての武器を放棄した男が無言で頭突きをしてきた。