熱のひと押し

気がついたら白い壁が目の前にあった。
身を沈めているのは座った記憶のないソファ。石化前に泊まったことのあるビジネスホテルによく似ている。違うのは、出入りするためのドアがなく、代わりに壁に謎の文章とタイマーがあること。
謎、といっても読めないわけじゃない。壁に直接『両手を使用せず六時間経過しないと出られない部屋』と書かれている状況が謎というか、意味はわかるけど理解したくないというか。忙しなく数字の変わるタイマーは05:58:23。もう六時間のカウントは始まっている、ということかな。

「バイヤー……これって創作ネタあるあるのヤツじゃん」
「この場所に心当たりあんのか、メンタリスト」

まさかね、と思わず呟けば隣から返るよく聞き知った声。
一人掛けのソファの隣にいつの間にか立っていた千空ちゃんは、怪訝そうにあちこち見回している。え、さっきまで居た?
千空ちゃんならすぐさまあちこち調べ始めるかと思ったのに、俺の心当たりとやらを聞くつもりなんだろうか。

「心当たり、というかよくあるヤツだと思うけど。千空ちゃん聞いたことない? セックスしないと出られない部屋、とか」
「んだそのイカレタ部屋」
「俺が設定してんじゃないってば!」

若干引いた目で見られて慌てて説明する。
ただでさえ年齢より潔癖なところのある千空ちゃんに、こんな密室に二人きりで妙な誤解されたくない。
俺の決死の思いが伝わったのか、なんとなく理解したらしい千空ちゃんは腰に手を当て大きくため息をついた。ありえない、と大きく顔に書いてはあるが信じないとは口にしない。そもそも石化光線なんてものがとんでもないファンタジーなのだ。こういう部屋、もある可能性はゼロではないと無理やり納得したんだろう。

「つまり何もせず六時間待ってりゃ出られるっつーわけか」

プー。
妙に軽いブザー音と共に壁のタイマーが06:00:00に戻る。

「あ゛!?」
「手だ! 千空ちゃん腰に手あてたから」
「いちからやり直しってことかよ!?」

バイヤー、両手を使わない、が想定より厳格。
あれこれ試した結果、手で何かを持つのは当然アウト。掬う、押す、はらうなんかの手のひらを使う動きは指が動くとアウト。さっき千空ちゃんが腰に手を当てたのも、指が動いて体に沿ったのがアウト判定だったみたい。
腕はカウントされないらしく、肘で椅子を押しのけたりはセーフ。くしゃみの時手で口を覆ったのもアウトだったあたり、この部屋の判定は少々怪しい気がする。あの時、指を動かしたつもりはない。押す、が指を動かさなければセーフで口を覆うがアウトなんてルールが曖昧過ぎる。

「指が動かなけりゃ手のひらで押す分にはセーフっぽいが、用心のためにも避けた方がいいだろうな」
「あと三十分、あたりで戻ってまた六時間どうぞ~とかジーマーで泣いちゃいそうだもんねぇ」
「ま、たまには何もせずゆっくりするのも悪くねえだろ」
「戻ったらドイヒー作業山盛り、じゃなきゃもっといいんだけど~」

どさりとベッドに転がった千空ちゃんは、細かい判定は追及せず六時間過ごすことに決めたらしかった。
確かに確認するたびタイマーは戻るんだから、手っ取り早く部屋から出るには手をいっさい動かさないに限る。何もせず六時間は長いけど、話していればそれなりにすぎるだろう。このところ造船作業で根を詰めていたんだし、千空ちゃんの言う通りゆっくりするのも悪くないかもしれない。
軽口をたたきあった時は、俺もちょっとした休憩のつもりだった。なんなら日頃がんばる自分に神様がくれたご褒美じゃないか、くらいの気持ちで。

 

 

まさか六時間がここまで長いとは。
いや、普段の六時間ならさほど長いなんて思わないのよ。作業の合間に気分転換がてら皆の顔みて、進捗チェックや配置の相談にのりつつあちこち動き回っていたらすぐ。今も、空調の効いた快適な室内でソファに座り、傍らのローテーブルには軽食まで。食べて飲んで話していれば六時間なんてほんとすぐ。秒。
手さえ使えたなら。

「……あと二時間だったのにメンゴね、千空ちゃん」
「それを言うなら俺もやってるだろ。気にすんな」

無意識に指の運動をしタイマーを六時間に戻してしまった俺が肩を落とすと、その前に伸びをしてアウト判定をくらった千空ちゃんが慰めてくれる。優しい。
まさか何かをしようとせずとも指を動かすだけでアウト判定なんて。だけど千空ちゃんが寝返りをうった時に手が動いた時はセーフだったのだ。これは『誰が』も判断に入っているのだろうか。俺ならただ指を動かしただけで何か小細工するとでも?
やはりこれは夢じゃないだろうか。
石化光線や三千七百年後なんて想像したこともなかった現実を生きているから、どんな荒唐無稽なことも夢とは思わない。常識的にありえない、なんて簡単に覆るのを俺はもう知っている。それでも。

「やっぱさぁ……夢、の線はありえないかな」
「テメーが俺の脳内で作られたメンタリスト様ってか? ありえるかありえないかっつーならある、が」

身軽にベッドから跳ね起きた千空ちゃんが、俺の肩に頭を寄せた。
ぐりぐりと額をこすりつけながら、気持ちよさそうに目じりを下げる。マーキングしている猫みたい。実際は、ただかゆいけれど手が使えないから俺の肩を使ってかいてるだけなんだけど。孫の手ならぬゲンの肩、なんてね。

「夢のつもりで動いて現実だった時に取り返しつかねえだろ」
「だよね~」

だから六時間きっちり手を動かすな、と釘をさされ俺は殊勝にうなずく。
もう絶対動かさないように、俺の両手は太ももの下にしかれ体重をかけられている。手を使わないどころかけして動かせない布陣だ。なぜか俺より判定の甘い千空ちゃんの手はぶらぶらと体の横で揺れている。
千空ちゃんの「取り返しつかねえ」は夢だろうと甘く見て指示を守らず食料を食べつくし結果出られない、なんて想定なんだろうな。俺にとっては、二人きりに浮かれて妙なこと言ったりする、なんだけど。
気を抜いたらすぐ口から飛び出そうになる「かわいい」を飲みこみながら、必死に意識を肩からそらす。頬にふわふわした髪の毛があたってこそばゆい。手が使えてたらわしわし撫でまわしてたかもしれない、ギリセーフ。
ああ、でも本当に夢みたい。だってこんなの、都合がよすぎる。手を使用したかどうかの判定も微妙だし、六時間、正確にはアウトのたびタイマーが戻るからもっと長時間千空ちゃんと二人きりで。なんだか距離も近いし、懐いてくれてる気配がするし、そもそも室内を少し調べただけで脱出方法を模索せず俺とただ話すことを選ぶ千空ちゃん、という存在が夢では。俺が脳内で作り出したとしか思えない。
もしものもしも、夢でない場合がおそろしいから特に何もする気はないけれど。でも。

「おい、動くなよ」

千空ちゃんの唇が俺の鼻先をかすめ、離れていく。

「取れた」
「あ、りがと~。なにかついてた?」
「髪の毛。かゆいとこ指でかけねえのは地獄だからな」
「実体験じゃん千空ちゃん」

やっぱりこれは夢じゃないだろうか。
ひたすら俺に都合のいい。

 

◆◆◆

 

けほりと咳込んだ千空ちゃんに、反射的にお茶をすすめそうになってピタリと止まる。だから淹れられないんだって。学習して、俺。
時間つぶしに話す、といっても今後の計画をたてればどうしたって紙に書き残したくなる。だから、なんて理由をつけて千空ちゃんの過去話をねだったのは、本当にファインプレーだった。そのせいで話通しだった千空ちゃんは咳込んだわけだから、そこはメンゴだけど。
なんの面白みもねえぞ、と前置かれて語られる思い出話のかわいさときたら!
幼少期のこまっしゃくれた愛らしさも、少年時代の生意気っぷりも、なにもかも全部身もだえするほどかわいい。どうしよう。千空ちゃんののどが許す限り無限に聞きたい。これ六時間じゃ足りないからねジーマーで。あんまり露骨に喜んだら気味悪がられるかもしれないし、かわいいと笑えば照れて話すのをやめちゃうかもだから必死に自制してるけど。でも、バイヤーちょっともれちゃってるかも。いやでもこれかわいすぎるもんリームーだよ。

「んなおもしろいかよ、他人のガキの頃の話が」
「え~? 千空ちゃんにもかわいい頃があったんだなって親しみ覚えるじゃん。今は見る影もないけど」
「ほっとけ」

ククク、といたずらっ子のように笑う顔がまたかわいい。見る影もなにも、今も昔も過去現在未来、全ての千空ちゃんがかわいくてかわいくてなんだか泣きそう。この部屋に閉じ込めてくれた誰かに本気で感謝をささげたい。千空ちゃんとこんな時間を過ごせたなんて、もう夢でも現実でもなんでもいい。
いや、待って。もし夢なら、俺は千空ちゃんの過去を勝手に捏造してるバイヤーなヤツなんじゃ。こんなかわいい過去があったに違いない、って思い込んで千空ちゃんのガワした俺の妄想に話させてるの。え、さすがにそれはこじらせすぎでは。引くとかそういうレベルじゃない感じ? それなりに千空ちゃんに重たい感情抱えてる自覚はあったけど、ここまで!? 夢だからタガが外れた、ってことにしておきたい。
指ひとつ動かさないよう、両手を太ももの下敷きにしておいてよかった。
もし俺の両手が自由に動いたなら、幼い千空ちゃんのあまりの愛らしさに花でも飴でもばらまいて不審に思われただろう。もっと話して、ずっと話してとお茶とのど飴を手に迫っていたに違いない。
ちらりと確認したタイマーは、残り四十分。
終わりが見えてくれば、長い長いと思っていた六時間も大したことない気になってくる。普段は聞けない千空ちゃんの過去話がゲットできたんだから、ある意味ラッキーかも。まあ俺の勝手捏造の可能性もあるわけだけど。うーん、怖いからこの可能性はあんまり考えたくないなぁ。
のどが渇いたのか、千空ちゃんはローテーブルを物色している。水のペットボトルばかりでコーラがないなんて、誰だか知らないけどセンスない。生温いコーラを飲むかどうかは置いておくとして。

「ヘイマスター、千空ちゃん印のコーラお願い」
「ねーよ。材料そろえたら作ってやるわ」

ほら、やっぱり夢じゃない? 返しが優しすぎるもん。
おそらく、大きくなりすぎた千空ちゃんへの気持ちを整理するため俺の無意識がガス抜きしてるんだろう。そういえば最近は、人が増えたせいもあってめったに二人きりになれなかった。こんな風にただ話したかったなんて、健気じゃんか俺。
この部屋から出れば元に戻る。常より距離が近く、気安く思い出話を教えてくれ、はしゃいだように笑う千空ちゃんは夢の中だけ。

「おい、膝ちっと開け」
「ん? りょ~、ってちょっ!!」
「落とすなよ。しっかり挟んでろ」

理解はしていても、目の前の光景の破壊力がすさまじすぎて飲みこむことができない。
俺の前に、膝をついた千空ちゃんが頭を垂れている。さっきからの流れでおかしいこといきなり言い出してるのは自覚してるんだけど、目の前の光景はそうとしか表現できないからどうしよう。え、なに? 何事が起ってる??
いやわかるよ。両手を使わずペットボトルの蓋を開けるには、本体を固定して蓋にかみついて回すのが手っ取り早いよね。もちろんわかるけど、その固定に俺の太ももが使われるとは思いもしなかったっていうか。
場所が場所なので、蓋に口をつける千空ちゃんの顔が当然俺の股間に近づく。待って。さっきまで健全に思い出話をしかわいいと笑っていただけにギャップが激しい。刺激が強すぎてどうしていいかわからない。年上ぶってはいるけど俺も二十歳そこそこの成人男性なわけで、石化からの復活後はいっさいそういう行為をしていないわけで。
あーんってお口あけながら股間に顔うずめるみたいな動きやめてもらっていいですかねぇ!?
無事蓋を開けた千空ちゃんは、そのままストローをさし満足そうに水を飲んでる。勘弁して。

「え~俺も飲みたい! 千空ちゃんの腕でペットボトル挟んで持ち上げたらなんとかならない?」
「構わねえが、指が動いたとかでアウトくらうかもしれねえ。もう六時間いけるか?」
「バイヤー、じゃあ元に戻るまで我慢かなぁ」

俺の足から口元までペットボトルを持ち上げる算段をしだした千空ちゃんに、諦めましたとあっさり告げる。いいんだよ、のどの渇きなんてあと少し我慢できないほどじゃない。とにかく頭を上げてほしかっただけだから。
好きな子が自分の太ももから突き出している細長いものをちゅうちゅう吸っているのを見て、動揺しない男だけが俺に石を投げなさい。

「無事に戻ったらコーラ腹いっぱい飲ませてやるよ」
「わー、ゴイスー楽しみ!」
「つってもテメーここ来てから何も口にしてねえな」

ローテーブルの上にはサンドイッチや個包装のお菓子、氷の入ったグラスにペットボトル。手を使わないと食べられないものばかりが置いてあるあたり、用意した人間の性格がわかるよね。

「それは千空ちゃんもでしょ」
「俺は途中食っただろ。タイマーリセットされた時」
「あー、手使えばいいのに顔から行った時だ」

手を使わないとあまりに思い詰めていたのか、タイマーがリセットされたところだから少しくらい手を使ってもいいだろうに、直接サンドイッチをくわえに行ったのだ。
思わずふきだした俺に、食えりゃいいんだよなんてぶすくれたまま手を使わず食べきって。普段は隠されている子どもっぽい表情がかわいかったから、忘れてなんてやらない。あの時俺も食べればよかったな、今更だけど。
照れ隠しか、うるせえなんて悪態をつきながら千空ちゃんは立ち上がる。
そのままテーブルの上のサンドイッチをくわえ、俺の方に。
俺の? 方に??

「え?」
「ん」
「えぇ……?」
「ん」

白いパンの間に挟まれた黄色い卵がゆるりと垂れる。落ちそう、とつい手が動きそうになって太ももが慌てて押さえつけた。危ない。またリセットされるところだった。
目の前にサンドイッチ。千空ちゃんはまるで下がる気なく、当然の顔で差し出している。

「あの、ほんとに俺、そんなにお腹……減ってない、し」
「ん」

唇の先にふにゃんと触れた。
ほんの少し開いていた隙間に、パンと卵が押し込まれる。近すぎて焦点があわない。真っ赤な目がぼやけて、鼻先になにかかすめた。
「妙な遠慮してねえで食え。食べ物はある時に食っとかねえと」
半端に口からはみ出たサンドイッチをもそもそ咀嚼する。ゆで卵とマヨネーズ、マスタードはどうだろう。入ってるんだろうか。わからない。味なんてちっともわからない。とにかく顔を赤くするな。平常心。千空ちゃんは好意で、腹がすいてるだろうからと親切心でやっただけ。変に意識して浮かれるんじゃない。
口でくわえたのは手が使えないから。物を手渡しただけで意識されたら困るでしょ、手も触れてないのに顔を赤らめられたら困惑する。ほら、他意はないんだから。

「もっと食うか?」
「いや~、あんまり食べると喉かわいちゃうし」

無理。
さすがにこれは無理。
役得、と喜ぶには刺激が強すぎ。
同じ部屋で二人きりうれしい♡いっぱいお話できたね♡♡ レベルの人間に口から口なんて、一気にレベルが上がりすぎてついていけない。唇が触れてないからオッケーとかそういう問題じゃない。あの顔が。千空ちゃんの顔が至近距離で、キスの近さで目の前にあるという事実がもう無理。リームーとかのんきな事を言っている場合じゃない。手加減して神様。
今ので俺の一生分のラッキー使い果たしたってのに、もう一度なんて来世の分まで使い果たしちゃう。

「ここから出たらめいっぱい食べるから気にしないで」
「……わかった」

タイマーは残り三十分。
のどの渇きはあれど我慢できない時間じゃない。というか今のでゴイスーのど乾いた。ドキドキどころじゃない。干上がる。
二人きりはうれしいけどそろそろドクターストップかかりそう。顔、赤くなるな。汗も。平常心、落ち着いて、これは仲間の距離、親切心。
夢かもしれないけど、夢じゃなかったときに取り返しがつかないから。
なんとか無事に終われそうだねと笑いかければ、千空ちゃんは何かを決意したかのようにまたローテーブルに向かった。

「千空ちゃんもお腹減っちゃった? 俺のことは気にせず食べてね」

またサンドイッチに顔を突っ込んでいる姿を見られるかな、と下心込みで期待する。大きな口ががばりと開いて白い歯と舌が見えるの、健康的なのに妙に背徳的で正直大変にエッチなんだよね。食べているところを凝視されるのは嫌だろうから、意識して見ないようにしてるんだけど。

「いや、俺よかテメーだわ」
「え、だから俺はもういいって」
「食うのは、だろ。水分はとっとけ」

ガシャリとガラス同士のぶつかる音がした。
皿の上にグラスをひっくり返した千空ちゃんが、何かを口に入れてこちらに戻ってくる。
今度は「ん」も言わず直接。

「せっ、んく……っ!?」

ひやりと唇に冷たさを感じた次の瞬間、俺の口内に生ぬるいものがねじ込まれた。
氷。
唇の隙間から無理やり押し込まれた塊をきちんと受け入れたことを確認するかのように、ぐるりと徘徊し抜け出す舌。千空ちゃんの。

「出すなよ」

お互いの唇が触れる距離で命じられ、頷くこともできずにただまばたきをする。
なに。なんで。どうして。俺の戸惑いは伝わっているだろうに、千空ちゃんはひとつも答えをくれずするりと立ち上がり、またローテーブルに向かった。
氷を口に入れて、ゆっくり戻る。
今度は俺が先に口を開いた。千空ちゃんを迎えるようにあごを上げ、そろりと舌先を出す。
千空ちゃんの唇に挟まれた氷が、俺の舌を撫でつるりと口内に滑り落ちる。冷たいはずなのに、どうしてかカッカと熱い。氷の後を追うように押し入ってきた千空ちゃんの舌が生温いからそう感じるんだろうか。
俺の舌と千空ちゃんの舌に挟まれた氷は、二人分の熱ですぐ溶けてしまった。欠片ひとつないのをすみずみまで確認して、またもうひとつ。
手が使えないから。
水分補給は大切だから。
言い訳を口にすることもできず、俺は氷ばかりをひたすら受け入れる。せめて言葉にさせてくれたら自分を納得させてやれるのに。

「千、空ちゃん」
「やめねえぞ。水分だからな」
「うん……もっと。もっと、お水ちょうだい」

ねだるように伸ばした俺の背に回すよう動きかけた腕が、ぴたりと止まる。代わりに頬をするりと手の甲で撫でられ、待ってろなんて。
夢かな。夢だな。ああ、もう夢でもなんでもいいや。
千空ちゃんから口移しで氷をもらうなんて、絶対にありえない夢だ。両手を使わない設定だからって、俺の脳は張り切りすぎじゃないだろうか。これくらいありえない方が、目覚めた後で現実と混同しないからありがたいかもしれないけど。
よそ事を考えていたせいか、氷が口からほろりとこぼれた。小さな欠片が首を伝い、襟から服の中に入りこむ。

「氷が」
「大丈夫よ、小さいし」

すぐ溶けちゃうよ、と続けようとして言葉に詰まった。
千空ちゃんの唇が、ぴたりと俺ののどに触れた。そのまま氷の跡をたどるよう、ゆっくり下がっていく。襟元から胸まで、服の上から幾度も口づけるかのように。たとえ布越しといえ、ふに、ふにと唇を押しつけられる感触はある。

「氷、見つからねえな」
「もう溶けちゃったって」
「いや、わからねえ」

鼻先で上着をかきわけ、乱し、インナーに歯を立てられる。
サンドイッチに噛みついていた歯。がばりと大きく口を開いて食べる姿がセクシーだと思っていた、千空ちゃんの口が。

「このへんに滑り込んだんだよな」

唇で食み、鼻先をこすりつけられぶるりと背が震えた。熱い吐息が布越しに胸にあたる。

「なあゲン、ここだろ」

見上げてくる目が心なしかぎらついている気が、した。まさか。
刺激を受けピンと勃ち上ってしまった乳首がインナーを持ち上げる。違う。そうじゃなくて、そんなんじゃなくて。見られたくなくてつい身をよじれば、布ごと唇に挟み込まれぎゅうと引っ張られた。

「ひっ」
「ほら、ここが出っ張ってる。服着ててもわかるじゃねえか」
「ち、ちが」
「氷だろ? それ以外でこんな風にでっぱるとこあるかよ。胸に。布押し上げて主張しまくるようなもんねえよな?」

話す間も唇は胸元から離れない。
熱い息が吹きつけられ、やんわり食まれ、たまに歯がきゅっと当たる。

「ほら、左の胸はなんもねえだろ。だからこれは氷だ」

刺激を受け続けている右の乳首だけが目立っているけれど、左もインナーが擦れてじわりとしびれているのがわかった。でも言えない。氷じゃないなんて。俺の乳首が氷と見間違うほどに大きく、はしたなく勃起してるだけです、なんて言えるわけない。千空ちゃんに。

「ゲン、なあ、これは氷だな?」

氷じゃない。
だけど乳首だなんてもっと言えない。
どうしてこんなに勃っているのだと、右と左で違うんだと問われたら答えられない。
だって千空ちゃんが。千空ちゃんの。

「こ、こおり」

千空ちゃんに興奮して、と告げて引かれたらどうしよう。絶対イヤだ。そんなの耐えられない。

「あ゛ぁ゛、氷だ。百億点満点やるよ」

にんまり笑った千空ちゃんは、長い舌でべろりと俺の胸元を舐め上げた。

「ひぃっ、ぁ」
「いつまでも氷が入ってたら冷たいだろ。溶かしてやる」

舌がべたりと右の乳首の上に張りついた。そのまま小刻みに動かされ、ぬるい体温と布の擦れる刺激に泣きそうになる。

「せっ、せんくちゃ」
「痛くないだろ?」
「痛くはないけど!」

答えたとたん、インナーごときゅんと噛まれ思わず悲鳴をあげた。
布と共に噛まれ、やわやわ舌であやされ、また歯をたてられる。止めたいのに両手は自分で太ももで押さえつけ、逃げるために背をそらせれば胸を差し出す形になる。まるで自ら希望して胸をいじめてもらっているようで、頭がどうにかなりそう。
千空ちゃんの唾液でべったり濡らされた胸元は、ふくりと勃ち上った乳首の形に布がはりついている。ふ、と息を吹きかけられぶるりと震えれば、氷が入ってるせいで寒いよななどとしれっと言われた。バカ!

「千空ちゃんやめよ、もうやめ。ね。俺は大丈夫だから」
「ほーん、大丈夫か」
「そうそう! ほら、残り時間もあと、えーと」

ぼやけた視界で必死にタイマーを探す。さっき見た時は残り三十分だった。今は、今なら。

「あと少しなら急いで氷とかさねえとな」

ちゅ、とかわいらしい音と共に乳首が引っ張られた。
千空ちゃんが吸ってる。大きな口の中に乳輪ごと迎え入れられ、ちゅくちゅくって。歯で側面を軽く扱かれ、舌先が先っぽをぐりぐりする。インナー越しだけど、布ごとだけど、でも千空ちゃんが。千空ちゃんの唇が俺の乳首を挟んできゅうきゅう引っ張って。
わかんないわかんない。

「冷たくないように水ぜんぶ吸い取ってやるよ」

は? バカかわいいな!?
と思ったとたんピーと軽い音が響いた。

 

◆◆◆

 

気がついたらベンチに座っていた。
目の前には食事が置かれたテーブル。向かいにはクロムちゃん、その隣はコハクちゃん。太陽は高く、周囲は明るいざわめき。俺のよく知る、食事時の石神村だ。
……はい夢~! 白昼夢!!
誰ひとりとして俺がここに座っていることに違和感を抱いていない。
夢だとほぼ確信していたといえ、謎の部屋での出来事があまりにリアルで俺はつい自分の両手を見た。指を動かしてみても、プーというブザー音は響かない。そりゃそうだ。あんな部屋、今の状況で作れるわけがない。快適な空調ってなに、夢でしかないでしょ。
そうだよ。わかっていたのに。
あーあ、夢ならもっと色々しておけばよかった。キスだけじゃなくてさ。いや、キスというにはちょっと言い訳が多すぎたけど。
自分の臆病さにため息をつきつつ、夢の中の出来事を思い出しておかしくなる。夢の中の千空ちゃん、なぜか俺の乳首に唆ってくれてたみたいだけど、俺、千空ちゃんの事そういう風に思ってるのかな。深層意識で。おっぱい星人ならぬ乳首星人じゃん。赤ちゃんプレイとか好きだったらどうしよ。バイヤー、それはそれで受け入れちゃいそうな俺が怖い。

「ん」
「え?」
「コーラ。腹いっぱい飲むんだろ?」

トン、とテーブルに置かれた瓶を訝し気に見つめれば不思議そうな声。

「それは」

夢で。

「あ゛」

首をかしげる俺を見た千空ちゃんの顔がみるみる赤く染まる。
さっきまでの部屋は夢で。だって誰も俺たちが行方不明になったなんて騒いでなくて。たぶん一瞬の白昼夢で。
でもそれが、俺だけじゃないなら。

「氷かどうか、確かめてくれる?」

つい、と胸元をひっぱって聞いてみる。
まだ溶けてないよ。ずっとある。ねえ、千空ちゃん。
赤い顔のまま気まずそうに、でも俺の隣に座った千空ちゃんは舌をべろりと出して言い放った。

「手を使っていいならな」

それ手の他にも色々使う気満々の顔でしょ。