夏なんていらない

父親のことは好きだった。
案外古風なところがあって面倒な時もあったけれど、父兄参加の運動会でリレーのアンカーを任されたうえにトップを独走なんてしてくれたら鼻が高くて。自分があまり運動が得意じゃないせいもあって、走るのが速い父親は自慢だった。

女の子には親切に、男なら我慢や。なんて面倒な教育方針だって、そこまで無茶なものじゃない。
運動神経のいい者独自の上から目線もなく、勉強の方が好きだと言ってもそうかと笑ってくれて。おとんも中学は勉強がんばってな、それなりの学校入ったんや。大学は部活ばっかがんばってもうたからそんなええとこちゃうけど。

がんばっていた、という高校時代の部活の話を聞くのがまた楽しくて、自分は何度もねだった。母親はその度、また~と呆れて肩をすくめていたけれど、けれどその話をする父親はそれはもう嬉しそうで。ぴかぴかと目を光らせて、とっておきの宝物を見せるように声をひそめて。
――すごい後輩がおってん。おまえの名前はそいつにあやかって。
だから憶えていた。
何度も何度も繰り返された思い出話。たった一人の、強くて真摯で純粋なエース。父親の。

 

◆◆◆

 

背が高くて、手足が長くて、自転車に乗ったら誰より速い。勝つことだけを考えている頭とそのために動く口。

「……ミドウスジアキラ、や」

ぽかんと口を開いたまま見上げて不躾に名前をこぼした自分を、彼はどう思っただろう。初対面は思いだす度に死にたくなる。
だって思ってもみなかった。父親の思い出話に出てくるすごい人、今も現役のレーサーな彼が家に帰ったら居間でコーヒーを飲んでるなんて。お客さんやから挨拶し、と告げるならもう一言。なんで誰かも教えてくれないのか。父親の大らかさには救われているけれど、細かいところが雑で困る。
顔をのぞかせた途端に立ちあがった彼を見上げたまま固まった自分に、座るタイミングを失ったんだろうぱちりぱちりと二回まばたきをして。

「石垣くん、そっくりやねぇ」

よく言われます、と緊張で言えなかった。あの時はそれを悔んで、今はよかったと思っている。

 

 

 

なんでおかんと結婚したん、と聞いたのは彼に会うもっと前だった。別にものすごく知りたかったわけじゃなく、従姉が結婚するという話を聞いたから一番身近な相手にも聞いてみただけの話。小学生になりたての男なんてそんなもんだ。

「おまえもそんなん聞くくらい大きいなったんやなぁ。ん? 好きな子でもできたか?」
「そんなんちゃう」
「照れんでええで? 好きになるってのはええことやからな」

にやにやと笑った父親の頭越しに月が見えたから、あれは家族で温泉旅行に行った時だ。自転車で少しだけ山を登りたい、と父親が行き先を決めてつまらないと母親がむくれていた。
自分も小さな自転車で少しだけ走って、いつか父親と同じので一緒に走ろうと約束したのだ。

「結婚、するくらい好きな相手は」

露天風呂だったから、虫の声がしていた。昼間よりもっと強く感じる、草の匂い。

「俺より二つ年上で、背が低くて、なんでも相談してくれて誰にでもにこにこ愛想がよくて、自分を追い詰めたりせんふんわりした毎日を過ごしてる人がええなぁて」

妙だな、と年端もいかない子供でも感じた。

「それで自転車に乗らん人」

でも確かにそれは母親で。父親より年上で小柄な母親は、社交的でいつもにこにこふわふわしている、父親の言う通りの相手で。理想にぴたりと合ったのが母親で、だから学生結婚までしたんだろうと違和感を押しこめて納得した。
おまえができたからや、と言われなくて少しだけ安心したのは誰にも告げていない。

 

 

 

歯車が合ってないことはあの頃から気づいていた。
いや、もっと以前から。
ただ決定的になったのは母親に出会いがあったからで、それを責める資格は父親にはないんだろうと理解している。

父親が結婚したい相手として挙げた特徴を持っていた母親はそれなりにもてたし、そもそもひどく構ってもらうのが好きだった。子供にではなく、父親に。いつまでも恋人同士のようでいたい母親とさっさと落ち着いて親になってしまった父親では、根本的な結婚観があっていなかったのだろう。それを話しあうことすらしなかったから、母親は諦めてしまった。

名前も呼んでもらえなくなるなんて耐えられない。
そうこぼした母親を責めるなんてひどいこと、無理だ。だって聞いていた。熱情と羨望と愛おしさ、すべてを込めた声で呼ばれる名前があることを母親は知っていたし、それを何度となく聞いた。
俺のエース、と繰り返し。
高校時代のたった一年。後輩で、男で、さほど親しく付き合ったわけでもなければ結婚式に呼んだわけでもない。卒業してから顔さえあわせていないそんな存在にだけ捧げられる声。
父親の思い出の夏にだけ現れる、たった一人の特別な人。

 

 

父親のことは好きだった。
だけど今からは大嫌いだ。

 

◆◆◆

 

義務教育が終わるから。高校生になるから。いくつもいくつも背中を押す理由をつけて必死に告げた願いは、歪めた唇の端にもひっかからないまま落っこちる。

「……キミはひどいこと言うなぁ」

そういうとこそっくりやで。
あいかわらずふらりと気ままに姿を見せる彼を掴まえて言い募った言葉は、ひとつたりとも受け取ってもらえない。

「あきらくん」
「うん」
「あきらくん、オレは本気で」
「うん……せやし、ひどいて言うてるやろ」

傍にいてほしい。オレを見てほしい。おとんやのうて、オレのこと。あきらくんを好きな、オレを。
好きになってなんて言わない。選んでなんてまだ言えない。父親が思い出にしてしまっている夏の日を彼はまだ抱えていて、その思いは溶けてさえいない。そんなことずっと見ていたから知ってる。
知ってるけれど、それでも。
突然いなくなるなんてないように、約束がほしい。
昨日までいた人がいきなり居なくなることを自分は知っているし、それでも毎日滞りなく過ぎることも知っている。だから。

「オレ、オレのこと」

言いたくなかったけど、でも、こんなことで手に入るならそれでいい。なんでもいい。

「なぁあきらくん。オレのこと、代わりにしてええから」

そっくりて言うてくれたでしょ。
高校、同じとこ受かったよ。自転車も乗ってる。髪型も同じにした。背はこれからもっと伸びるし、声は電話でやったら間違われるくらい。
だから、お願いやから傍にいて。

ぱちり、とまばたきをするのは言葉を選んでいる時だと知っている。
それくらい見ていた。

「ショウくん」

めったに彼が口にしない名前はまるで自分のものじゃないみたいだった。

「ボクはキミを見るたんびに、アレがかわいい女の人と結婚して幸せに暮らしたんやなと思うし」
「うん」
「キミの名前を確認するたんび、アレの中でボクが特等席におったんやなと自覚するんよ」
「うん」

ちゃんと聞く。ちゃんと。
だってこれはあきらくんがオレに。オレにだけ向かって話してくれること。おとんには絶対言わない、二人だけの。

「せやから無理や」
「あ、諦めたらあかん!」
「スポコンでどうにかなることちゃうわ」

ふ、と鼻で笑われて顔が熱くなる。こめかみが熱い。きっと頬が真っ赤だろう。イヤだな、子供っぽい。
彼の前でだけは大人っぽくいたいのに。父親と同じくらい。間違えるくらい。代わりにできるくらい。

 

 

 

せめて違う名前ならよかった。目の前でまたまばたきをしてる、大昔の感情を後生大事に抱えてる不器用な彼が可能性なんて探せないくらい。
父親なんて大嫌いだ。こんなに想われているのに彼の手をとることさえできないくせに、キラキラと輝く過去ひとつでこんなにも縛って。
夏なんてなくなればいい。そうすれば父親は宝物を失うし彼はここには居ないだろうけれど、それでも。どうしても。

だって自分は彼をエースと呼ぶことなんて決してできない。