春の訪問者

一松は疲れていた。
心底疲れ切っていた。
本来はボスである兄がお気楽に「ちょっと旅行行ってくるな、留守は任せた!」などと姿をくらませたため、事務方の補佐をしていた一松にすべての業務が集中してしまったのだ。
マフィアといえ常に銃をぶっ放して抗争ばかりしているわけではない。兄はそういう方を好むが、ドンパチで金が入るかと問われればリターンは薄い。だからこそ一松が事務方として、表向きのレストラン経営から裏向きの銃器の違法製造や気持ちよくなるお薬の流通など、金庫番として働いてきたというのに。

「おまえにボスの権限渡しちゃえば俺がめんどうな書類さばく必要なくね、じゃねーんだよバッカ兄が!!!」

どん、とスーツケースの蓋に乗り上げむりやり閉める。数枚の着替えと金があればいいのにどうしてこうも荷物がかさばる。携帯なんて置いていこう。
数分前、いまオーロラ見てんだぜすっげぇきれーだわ一松も来たらよかったのにな、なんてのんきな声を響かせた電話を憎々しげに見やる。コーヒー飲む、って聞こえたのはチョロ松兄さんだ。おそ松兄さんはほんとどうしようもないねちゃんと連れて帰ってくるよ、と手を振っていたのはなんだったのか。おまえ旅行楽しんでんじゃねーよ。来たらよかったじゃねーよ。

上司二人に裏切られ無理やりボスの座を勤めさせられていた反動がきた、と言うならそうだろう。
そもそもマフィアのボスなど向いていないのだ一松には。普通そんな職に向いている人間はいない、と言うなかれ、長兄であるおそ松はボスになるべくしてなった男だ。本人もノリノリで楽しんでいる。そのくせちょっと思っていたのと違う仕事、つまりは書類関係がたまれば即逃げだすのだから始末が悪い。
書類仕事をさほど苦にしないチョロ松や一松が手伝ってしまうのも悪かったのか。けれど納期は待ってくれないし、嫌がるおそ松に無理矢理させるより代わりにする方がずっと楽なものだから、つい。
それでも今回の兄たちの所業には、堪忍袋の緒が切れた。

別にね、二人でオーロラ見たかったならそう言って出かけりゃいいんですよ。一松悪いけどって先に言われてればチョロ松兄さんにはいつも世話になってるから協力もやぶさかではないって言うか、まあしゃくだけど。うん。騙し打ちみたいなことせずにいてくれたらね、帰って来てからの休み三回連続とりあげ程度ですますつもりだってのにね。二人でそういうことされちゃうとね、もうね、あーあ。

つきあってるのは知ってるからさっさと言えよこっちに、ということである。つまりは一松は少々拗ねていた。あと疲れ切っていた。
だから常よりも考えなしであったし、向う見ずであったうえにノリと勢いで行動を決めてしまった。なんだかんだいって似ている兄弟だった。

「今から行ったら、まだ間に合うだろ」

そっけない真っ白の用紙に打たれたビジネスメール。わざわざプリントアウトした文章の最後を、一松はそろりと指先でこすった。消えないことを確認するように。

 

◆◆◆

 

カラ松は疲れていた。
心底疲れ切っていた。

営業だから、これは挨拶みたいなものだから、と任された得意先へのメールはどう考えても事務の業務内容ではないかと思ったが、じゃあとお願いできるほど余裕のある同僚など誰もいなかった。自分の業務をこなすことで精一杯なのは皆同じで、では少しでも内容を知っているカラ松がやりとりをするのは当たり前、が社内の風潮で。
もちろん嫌ではない。メールのひとつやふたつ、カラ松だってするし仕事だからアレがいやこれが嫌なんて言う気もない。

ただただ量が問題だった。新規を開拓してお得意様も回って以前断られたところだって何度も通えばどうにかなるかもしれなくて、それに伴って挨拶だアポだ説明だクレームだお礼だなんだかんだ。営業補佐はこういうことしてくれるんじゃないのかな、とちらりと頭をよぎるも補佐として採用されたはずの後輩は隣で死にそうな顔をしてカラ松と同じ内容の仕事をしている。たぶん彼よりはカラ松の方がマシなのだろう。なんせ営業、として採用されてその通りの仕事をしている。補佐と言われてメインの仕事を振られるよりマシなはず。きっと。たぶん。違いは会社の上の方しか知らないけれど。
そんな風に仕事に追われる日々を過ごしていたから、魔がさしたのだ。

英語で綴られるビジネスメール。相手も英語が母国語でないからこそ形式的なやりとりだけでなんとか通じあっているその末尾に、日本語で近況を記したのはいつだったか。

『紅葉の時期ですが、未だ目にしておりません』『早朝たまに霜柱を踏むことがあります』『空気が冷たいので空が高いです』『梅と桃の差が見分けられないのですがどちらかが咲きはじめました』

咎められれば時候の挨拶だと逃げるつもりでいた。その割に内容がくだけてきたのは、相手からの反応がまったくないためだ。

「……ああ、違うか」

ぽつりと呟き目を休めようと窓の外を見る。緑をさがしたのに目に飛び込んできたのは川沿いの桜並木だった。

『桜が満開なので、見に』

打ち込んだ文章を消してぐいと伸びをする。メール相手は返信が早く、内容もまとまっていてわかりやすい。ぶっきらぼうに感じるのはきっと英語に慣れていないからだろうし、カラ松からのメールとて相手には堅苦しく教科書からとった文章そのままだと思われているだろう。実際その通りだ。それなのに。

それなのに、一度。末尾に一言を記さなかった次のメールに、che c’e?とついてきたから。なんの反応もないから読んでなどいないと思っていた。ただカラ松が日々に追われる毎日の中、メールを書くときに今がいつか思い出す、それだけのひとりよがりな行動だったはずなのに。
どうしたの? なんて。そんなこと書かれたら、反応されたら、個人的なやりとりをしてるような気分になってしまう。勝手に。

『もうすぐ桜が最も美しく見えます』

だから見にきたらいいのに。そうしたら接待だと言い張ってやろうか。ああ、でもそんなことをしてはひっそり楽しんでいる個人的なやりとりもどきが仕事になってしまう。それはなんだかもったいないから。

「会ってみたい、なあ」

『夜桜も素晴らしいです』

 

◆◆◆

 

「ねーチョロちゃん電話しよ電話。ちょっとどうなったか聞きたいだけだから」
「この書類終わったらね」

つい、と目の前にすべらされた紙を親の敵のように睨みつけたおそ松は、じゃあ休憩してから、と止める間もなく簡易冷蔵庫に向かってしまった。一松仕様に改造された室内は、大きめのソファにブランケット、ポットに冷蔵庫とどう考えても数日は泊まり込み可能となっている。真面目で融通の利かないタイプの弟にボスをまる投げしたのは一時といえ負担だったんだろうな、とチョロ松は一応反省した。まあ主犯は目の前でソーセージ咥えてる馬鹿なのでそこまで自分は悪くない。

ふらふら旅に出た兄をとっ捕まえ、オーロラを見たら大人しく帰ると言うので駄々をこねられ逃げられるよりマシかとつきあえば、その間に今度は弟が行方不明だと部下たちから鬼電がきた自分の心労を考えろとチョロ松は思う。下手な中間管理職より胃を痛めているのだこっちは。将来禿げたら絶対こいつらのせい。訴訟も辞さない。

責任者がいないのはまずかろうととりあえず戻ってきたものの、弟は「全部なにもかもおそ松兄さんにまかせる。俺は有給だから絶対連絡しないで」などと言い放ったらしいし、伝言を聞いた兄は大笑いして「じゃあ俺はチョロ松にまかせて夏休みとる! よろしくな!!」と喜び勇んで走り出そうとしたからひとまず社長椅子(黒くて広くて座り心地はイマイチ)にくくりつけた。

「そもそも一松が有給とか言いだしたのは兄さんのせいでしょ。仕事押し付けすぎたんだよ」
「えー、適当に誰かにまかせりゃいいのに抱え込んでるんだから趣味じゃんあんなの」
「まかせすぎてボスの座まで投げたおまえと真面目な一松を一緒にしてやるなよ」

最近は忙しすぎて好きな猫さえ構いに行けていなかったらしいから、どうせその辺の路地にでもいるのだろう。そうのんきに考えていたチョロ松に爆弾を落としたのは当然のようにおそ松だった。いつなにをどうしているのかわからないが、妙に弟たちの動向に詳しい。訊いてみても、だってお兄ちゃんだから、などとふざけた答しか返ってこないのが腹立たしいが。鼻の下をこするな。拙い仕草をするな。似合っているのがむかつく。

「真面目ね~……なあなあチョロ松、真面目なヤツほどぶっ飛んだらやばいと思う? 一松、どんなもんだろーね」

お兄ちゃん知ってる~一松くんきっとこいつに会いに行ったんだよ~。
にやにやと人の悪い顔をしてトンとPCの画面を叩く。こいつには絶対弱み握られたくないと思うチョロ松は間違っていない。そして握られてしまった一松、ご愁傷様です。
のぞきこんだ画面にあったのは数通のビジネスメール。表向きの仕事のイタリアンレストラン相手の、営業?

「顔も知らないんでしょお互い。非現実だよね」
「情熱的って言ってやれよぉ。それにジャッポーネは手紙でデートするってよ」
「それ大昔の話でしょ」
「いーじゃんいーじゃん。大和撫子な嫁連れ帰ってきたらお兄ちゃんお祝いにボスの座あげちゃう!」
「それが嫌で有給消費という名の家出してるんだけどね一松は」

松野カラ松、ねえ。自分たちとそう変わりない年齢の男の写真を見やりつつ、チョロ松は溜息をついた。
突然に男の嫁になるか死かを選ばねばいけないだろう青年を哀れに思いつつ、止めないのは弟がかわいいからだ。好きな猫さえろくに構えなかった一松の癒しだったんだもんなあ、あのへったくそな英語と唐突な日本語のメール。じゃあ仕方ない。本当に申し訳ないけど諦めてほしい松野カラ松くん。

「あ、英語はダメだけど事務仕事はそれなりにできるっぽいよチョロ松」
「マジか。よし、一松必死で口説け! 書類仕事できる身内増やせ!!」