新婚家庭の歩き方

面倒なとこ見られたな、が最初に考えたことなのは正直まずいかもしれない。

「じゃあ私は店の予約するから石神君は皆に連絡お願いね」
「わかった」

聞いたか。なんの問題もない、ただのゼミ飲み会だ。二人で話してたのは単に偶然会ったからで、幹事はゼミ生全員に順番に回る。あっちは彼氏持ちだし俺に後ろ暗いところは一切ない。今だって、これからデートだって聞きもしてねえのに惚気垂れ流してさっさと行っちまっただろ。見ただろ。
一人になった途端、駆け寄ってきたゲンが口をとがらせる。

「浮気だ」
「ちげぇよ」

百億パーセントありえない単語を口にしつつ、ゲンは俺の背中にぐりぐり拳を押し込んできた。

「俺が買い物でスーパーに来るって知っててわざときれいな女の人とお話してたんだ……ひどい千空ちゃん離婚よ! とか言うの期待してるなら残念でした、言わないからね~」
「はいはい」
「もう! 真剣に聞いてよね!」

頬をふくらませわざとらしく拗ねたフリをするゲンの発言は、何度聞いてもめまいがする。離婚だの奥さんだの、見当違いでないところが特に。
何の因果か、俺とゲンはこの間籍を入れた、らしい。

 

 

 

隣に住むゲンは、幼馴染というには年齢が離れすぎていたが小さい頃から俺に懐いていた。
千空ちゃん千空ちゃんとついてまわり、なんでも俺の真似をしたがる。おっきくなったらせんく~ちゃんとけっこんする♡と言われた時にはゲンの親父さんに申し訳なくて顔が見られなかった。なんせ一人娘を溺愛している親父さんだ、パパと結婚すると言われるのが夢だとさんざ聞かされていたのだから俺の気持ちもわかってほしい。

悔し涙を流す親父さんに「だってパパはママとけっこんしてるでしょ。だからげん、せんく~ちゃんとけっこんしてずっとパパとママといっしょにいるね」とさらりと告げ嬉し涙に変えていたのは、幼いながらもさすがだった。小さい頃から人が何を言われりゃ喜ぶか、よく知っているのだ。

俺とて、そこまで懐かれれば嬉しくないわけがない。百夜と二人、男所帯の石神家をなんだかんだ気にかけてくれた浅霧家には足を向けて寝られないし、その一人娘のゲンのことは妹のようにかわいく大切に思っていたのだ。
ゲンが十六歳になった日の翌日までは。

毎年恒例のゲンの誕生日会に招かれ、すでに酔っぱらっていた親父さんにさんざ飲まされ、気づいた時には籍が入っていた人間の正しいリアクションはなんなんだろうな。とりあえず俺は、二度寝した。夢だと思ったからだ。まさか十六歳になったばかりの娘を、八歳も年上の、まだ働いてもいない男と結婚させるなんてありえないだろ。
夢じゃないよ、とゲンに見せられたのは記入済婚姻届の写真とそれを提出する動画。おいなんで百夜と行ってんだ、っつーか役所のおっさんなんでピースとかしてんだよ、照れますねとか言ってる場合か受理すんな。
千空ちゃん酔っぱらってて起きないし百夜パパが夜だし危ないからって来てくれて、じゃねえんだよ。叩き起こせ。そうしたら絶対止めたのに。

「千空ちゃん今日なに食べたい? 確かまだジャガイモあったよね。肉じゃが…ポテトサラダ…」
「カレーにしとけ。それなら俺が作れる」
「え、いいよ作るよ」
「もうすぐテストだろ。高校生は勉強しとけ」

玉ねぎとカレールーをかごに入れれば、子ども扱いしないでとむくれつつ肉を持ってきた。こういうところは素直でかわいいんだが、結婚したんだからと妙にはりきってあれこれするのは勘弁してほしい。

「……牛乳飲んだら胸おっきくなるってほんとかな」

ねえ千空ちゃんは大きいのと小さいのどっちが好き!? などと聞かれて答えられると思うのか。平日夕方のスーパーで、八歳も年下の高校生相手に。軽く犯罪だろ。
さっさと背を向ければ小走りでついてくるのは昔から変わらないのに。

「ね、千空ちゃん今日どっか行ってたの? 大学からだとこっちの道通らないでしょ」
「冷蔵庫の中身的に今日あたりスーパー寄ると思ったからな」

別に力自慢ではないがゲンよりはマシなのだから、荷物持ちくらいはするべきだろう。毎日料理を作ろうと張り切ってくれているのを知っているから来たのだが、ゲンはなぜか妙な顔をした。

「え~、そんなの……気が変わって来ないかもだよ。そしたら無駄足じゃん」
「そんときゃ俺が買って帰るだけだろ。それにテメー来たじゃねえか」

会えてよかったわ、と告げれば頭突きをされる。いてえよ、なんだいつもペラペラいらないことまでしゃべるくせに。口で言え、口で。

「も~! 千空ちゃんそういうとこがね!? もぉぉぉ!!」
「なんだよ牛の真似か?」
「ちーがーいーまーすっ」

じゃれながらレジを通りゲンがエコバッグに詰めた荷物を持つ。新婚さんみたい、なんてへにゃへにゃ眉を下げるので気合を入れてやろうと鼻をつまんでやった。
みたい、じゃねえんだよな。ああ、もう。

「千空ちゃん帰ったら勉強教えて?」
「おう。テスト範囲だしとけ」
「はーい。頼りにしてますセンセ♡」

ゲンが中学生の頃から毎回教えてやってるから、俺もゲンも慣れたものだ。専属家庭教師みたいなものだから、余計に浅霧家からよくしてもらっている気がしないでもない。俺には無理目の高校受かったの千空ちゃんのおかげだよ、と感謝されたが真面目にやればゲンなら俺がいなくとも行けたはずだ。ただ興味が薄いことに対する集中力が弱いから、成績にムラがある。
前に後ろにとふらふら歩くゲンのスカートが揺れる。俺も通ったはずだが、制服を見ても懐かしさのかけらもない。こういうところが情緒がないと言われるのだろう。

「俺、千空ちゃんと結婚してよかったな~」
「テスト対策ばっちりだからな」
「そうそう、ってそれだけじゃないって。ジーマーで!」

とん、と腕が触れた。するりと離れて行って、くるりとこちらを振り向く。

「千空ちゃんのこと大愛してるから、だよ」

夕日を背負っているからゲンの表情は見えない。
昔から変わらない、せんく~ちゃんとけっこんすると宣言した時と同じうれしそうな声。

「あ゛~、そりゃおありがてえこって」
「もう! 全然本気にしてないんだから!」
「してるしてる。おら、前見てしっかり歩け。こけてももう背負ってやれねえぞ」
「いつの話してるの! あのね、俺もう高二だよ、十六歳。結婚もしちゃってるんだからね!?」

その結婚相手は俺なので、そうですねとしか反応が返せない。
ちょこまかと俺の後をついてきては嬉しそうに笑っていたゲン。うるさいくらいしゃべるくせに肝心な時は黙ってしまうから、怪我も腹がすいたもしんどいも何も言わない。だから俺はしょっちゅうこいつを気にする癖がついて。小さい妹、かわいい妹、俺のことを兄のように大好きな妹。

かわいがってきた自覚はある。らしくもなく。
だってゲンくんに彼氏ができたら嫌だって、そりゃさみしいなっておまえが言ったからこれはもう両思いだとばかり。とは勝手に婚姻届なんぞ出した百夜の言い分だ。

当然だろう。ゲンがよちよち歩きの頃から面倒みて構ってしてきたのだ。せんく~ちゃんとけっこんする、と言われたのだ。こんなものもう父親だ。いやそれは親父さんに悪いな、兄でいこう。兄だ。妹にどこの馬の骨かわからん男が寄ってきたらそりゃ嫌だろう。これまで一番に懐いてくれていたのが他を優先されるようになったらさみしいだろう。
そこからいきなり結婚に飛ぶから話が混乱するのだ。
百夜の言い分は置いても、浅霧家がわからない。この春から海外勤務になった親父さんは、今の高校に通いたいというゲンの意志のもと娘を千空に託し泣く泣く夫婦で旅立った。ここだ。なぜ俺に預ける。いや、隣同士だ、なんだかんだ面倒は見るだろうし家の行き来もするだろう。未婚の女性が未婚の男性の家に出入りしているのは外聞が悪い、のもわかる。だが結婚は勢いがつきすぎでは?
石神家とて百夜は基本アメリカだ。どう考えてもゲンがついていくかおふくろさんが残るかだろう。

パパとママ、ラブラブだもん。新婚気分楽しんじゃってるよ。と言われても。千空ちゃんなら半分くらい自分の息子の気分だからいいんじゃないの? には頷いた。なるほど、一番マシな馬の骨。
いやいやいや。待て。やはりそれは思い切りが良すぎる。親はそれでいいとして、ゲンは。
こいつに本気で結婚したいくらい好きな相手ができた時、後悔するだろう。

「何回言ったら信じてくれるのかな~」
「テメーに好かれてることくらいは知ってんぞ」
「じゃあ照れるくらいしてよね~」

照れのひとつも見せず好きだなんだと言うくせに、何を言う。
仕方ない。ゲンがもっと大人になるまで、それまでよき兄として御守りをしてやろう。バツイチになるのは気の毒だが、それくらいで怯むような相手なんて誰が許しても俺が許さない。
兄というより保護者だな、と自分に呆れたところでゲンが小さく俺を呼んだ。

「……あの、ほんとはわかってるよ。千空ちゃん俺のことそういう風に好きじゃないって」

玄関先、ドアを背にゲンが立っている。
うつむいているから顔が見えない。声も聞き取りにくい。いつも、こんなところで止まらず我が家のように入ってくるだろうが。
冷蔵庫にはゲンのためのコーラがあるし、洗面所に謎のボトルを何本も置いている。化粧水はわかるがそれ以外の区別がつかない。着替えもある、靴箱があふれたとブーツも置かせてやってる、今俺が持っているのは二人分の今晩の食料だ。
ゲンが家に入らない理由なんてひとつもない。

「でも結婚しちゃったし、せっかくだから前向きに過ごしたいでしょ!? 外では今まで通りするから、その、おうちの中だけでもちょっとだけ……新婚さんぽくしたい……」

なにがせっかくで前向きなのかわからない。
けれど、別に拒否するほどではなかったので。

「いいぞ」
「えっ」
「新婚な。ただし俺が犯罪者にならない程度だ」

未成年だろ、と笑えばゲンのまとう雰囲気がぱっと明るくなる。俺相手に緊張なんかしてるんじゃねえよ、今更。

「なにがしたいんだ」
「えっとね、じゃあ、じゃあ」

ひどく嬉しそうに迷い、ゲンは靴を脱いでそっと手を差し出してきた。
そうだよ、ここはとっくに俺とおまえの家だろ。さっさと入ってきたらいいんだ。

「リビングまで、手つなぎデートしよ」

ぎゅわんと心臓が奇妙な音をたててきしんだ気がした。……気のせいだ。

 

 

 

後々聞いた話によると、ゲンが何をしても俺は手を出さないだろうと信頼されていたらしい。
千空くんは責任感が強いから、とおふくろさんに笑顔で告げられ冷や汗をかいた。だから結婚といっても口約束、もし何かあればゲンは俺のことを好きなんだから責任とってもらえばいい、なんて。
記入済婚姻届は確かに用意したが、未提出。ゲンの見せてきた動画は途中、らしい。まだ出さないけど出してるみたいに動画とりたい、協力してください♡で役所のおっさんは受け取るフリをしてくれたそうで。誰にでも愛想よくしてんじゃねえよ。
今更別に嘘ついたなんだと責める気はないが、ネタ晴らしが四年も経ってからってのはどうなんだ。一応ゲンが十八歳になってつきあいだした時に教えてくれてもいいんじゃないのか。

「拗ねないでよ。だって千空ちゃんとなるべく長く新婚生活したかったんだもん」
「……今からが本番だろうが。これ、出すんだから」

四年越しに役所に提出される婚姻届をひらひらと振れば、昔から変わらない笑顔を向けられる。

「千空ちゃん、大愛してるよ。ジーマーで」
「俺もだ、ゲン」

たぶんリビングまでの初デートの時から。