恋人にはなれない - 1/3

「……なんか近くない? 距離」
「そうか?」

後ずさりするゲンを追うように一歩前へ出れば、また後ろに下がられる。

「最近なんかゴイスー寄ってくるの、言いにくいこととかあったりするのかな~って」
「いや、そういうのはないな」
「そっかー。いや千空ちゃんにそんなつもりないのはわかるよ、わかるけど、これ結構恋人とかそういう感じの距離だからさぁ。気をつけた方がいいと思うな~」

顔を覗き込めば長い袖でガードされる。
これが恋人の距離ならば。

「おう、だから俺はいいだろ」
「女の子にしないのは当然として男相手にだって誤解されるレベルだって」
「いや、だから俺だから構わねえだろ。恋人なんだから」

袖に隠された顔が見たいのでぐいぐい引っ張れば、ぽかんと口を開いた間抜けな顔が現れた。

「……メンゴ。誰と誰が、恋人って」
「俺とおまえ」

だから距離が近くても何の問題もない。
当然の権利を行使するためゲンの耳をひっぱりこちらを向かせれば、ギクシャクとオイルを注していないロボットのように千空の方を向いた。

「待って千空ちゃんそれどこ情報!?」

俺ドッキリはNGなんですけど!!!??

 

◆◆◆

 

冗談のような話だが、千空は先日まで記憶喪失だった。らしい。
記憶喪失中の記憶が丸ごとないので、伝聞でしか状況がわからない。
覚えているのは大樹たちと別れた時点まで。コハクと会った記憶のない千空は、唐突に手に入ったマンパワーに大喜びしていたそうだ。
当然だろう。科学王国をいかにして作るか、と考えていた矢先に希望通りの村が転がり込んできたのだ。記憶を失っていた七日間、常とほぼかわらぬ勢いでクラフトしまくっていたに違いない。

正直、自覚はない。書いた覚えのない設計図や記憶より進んでいるクラフト作業、なにより村の住人がそろって皆口をそろえるのだ。わざわざ手間をかけてそんな意味のない嘘を千空につく必要などない。だから七日間もの間、千空が健忘を発症していたのは事実なのだろう。
医者も医療機器もない現状、外傷がなければできることなどなにもない。だから千空は、そういうこともあるかもしれないと受け入れた。今考えても仕方ないことは後回しにすべきだ。頭のリソースは有限で、他に考えなくてはならないことはいくらでもある。作業は滞りなく進み、人間関係も妙なことにはなっていない。何をしたかまったく記憶にないため、いっそ誰かが千空の代わりに働いたと言われたほうが納得できる。代理人をたてた千空は一週間ゆっくり休暇を楽しんだか、と問われれば、一晩寝たら七日過ぎていたので狐に化かされた気分だが。

それはさておき一週間。
今の千空の記憶にない、記憶喪失中の千空が過ごした七日間。その間、千空とゲンは恋人同士であったと証言したのはスイカだった。
想像してほしい。村の冬支度とVS司帝国のためにせわしなく作業してくれている子供に、恋人なのにどうして最近一緒にいないんだよ、ケンカしたならあやまった方がいいんだよ、と言われることを。
想定の範囲外すぎる言葉に、一瞬自分への言葉だと理解できなかったくらいだ。ゲンならちゃんとあやまればゆるしてくれるんだよ、ってなぜ千空が悪いこと前提なのだ。というか千空はゲンへの態度を変えたつもりはなかった。これまで通り、がケンカしたと思われるのは一体どういうことだ。
短いつきあいではあるが、スイカは噂話や冗談をそのまま鵜呑みにするほど幼くはない。村のあちこちで聞き知ったことを一度自分の中で整理し、必要な情報だけを取り出すことができる名探偵様だ。そのスイカが口にしたからこそ、千空はバカバカしい与太話だと一笑に伏さなかった。

「……なるほどスイカちゃんか~……バイヤー、気づかれちゃってたわけね」
「コハクやクロムに確認とったらよ、そう言われればラボに二人で寝るようになってたとか、はっきり言われてないが確かにそんな雰囲気がとか肯いてて」
「えー、なんで納得しちゃうわけ!?」
「距離感がどうこう言ってたな」

そこまでわかりやすかっただろうかと反省会を開き出すメンタリストの背を小突き、先を促す。

「言われてみりゃ記憶が戻った朝、俺ら二人でラボで寝てただろ。これまでは俺とクロムがあそこで寝て、テメーはカセキのとこ行ってたはずだ。諸々鑑みて恋人なんだって理解したんだが」
「理解が早すぎるんだよね、ジーマーで」
「で、なにがドッキリNGだよ」

つまんだままだった耳の形を指でたどる。覚えておけばそのうち3D化したりできるだろうか。だが何で作ればこの触感になるだろう。温度はどうすれば。

「あ~、うん。まあばれちゃったから白状するけど恋人してたわけ、記憶喪失中の千空ちゃんと俺」
「おう、さすがスイカ情報だ。正確じゃねえか」
「後でほめたげようね。……って、ええとね、千空ちゃん記憶喪失中のことなにも覚えてないって言ってたよね。寝て起きたら七日経ってた、って」
「おう、誰か知らねえヤローが過ごした七日間をぽんとひっつけられたみたいな気分だわ」

あまりに荒唐無稽なので記憶を失っていたのは己なのだと納得しているが、つい、千空とはまったく関係ない別人であったのではと思ってしまう。
物心ついて以来、七日もの長期間の記憶を、思い出そうとして思い出せないことがないのだ。脳内に記憶がかけらも見当たらないため、本気で他人としか思えない。
だからこそ、ゲンと恋人と言われても納得できた。
千空はこれまで、ゲンに恋愛感情を抱いたことがない。悪い人間じゃないとは思っているし、何事も卒なくこなすから便利に使ってしまっている自覚はある。司を裏切って科学王国についたのはありがたいと、感謝しているくらいだ。だがそれは恋愛感情ではない。
それなのにいきなり恋人だなんて、いっそ別人格でも誕生させないと無理だろう。記憶喪失中の七日間は、千空の預かり知らぬ別の男が存在したのだ。この肉体を借りて。

「でもさ、千空ちゃん別に俺のこと好きじゃないでしょ」
「まあな」
「だよねだよね、今の千空ちゃんからそういう風に見られてる感じしたことないもん」

わかるのかよ、と口に出しそうになって千空は慌てて言葉を飲み込んだ。追及するのは少々気まずい。
今の、と言うからには以前の、がある。
恋人であった以前の千空は、つまりそういう風にゲンを見ていたということだ。まるで覚えていないが。
いったい何を思いこの男にそういった感情を持ったのだろう。
なんせゲンだ。悪い人間ではないが、恋人としておすすめかと問われれば首をかしげる。恋愛感情は脳のバグだから意図した相手に惚れるわけではないと理解していても、なぜこいつと不思議には思う。

「スイカに聞いてから、なんでテメーとって謎だったんでちーっと観察したんだが」
「あっ、そこに引っかかっちゃったわけ」
「ガキどもにしょっちゅうひっつかれてるだのじじばば受けがいいだの、口で言うほど女にがっつかねえなだの、悪人ぶってるわりに詰め甘いなっつーことくらいしか目に付かなくてよ」

あと面倒で細かい単純作業に大活躍でおありがてえ。観察の結果ついでに日頃の感謝を少々盛ってみれば、耳をつかんだままだった指先がじわじわ温まった。耳朶が赤い。顔色はちらとも変わらず飄々とした顔をしているくせに、千空が耳を見ていることに気づけばうなり声をあげてしゃがみこんだ。
ずっと触れていた指先が離れたので、なんとなく落ち着かない。

「照れたらうなじ赤くなるんだな」
「観察禁止です! プライバシー守って!!」

つい見たままに感想を述べれば、ぎゃいんと噛みつく姿が小型犬のようでおもしろい。しゃがんだままじゃ何を言っても迫力に欠ける。出会った当初は狐を装っていたくせに、目の前で唇をとがらせている姿は誰も騙せやしないだろう。

「あ゛~、だからよ、知りてえから」

少し観察しただけで出てくる、これまでとがらり印象の違う男。
顔色を操作くらいしていると思っていたけれど、うなじは赤くなるなんて今知った。だから襟の高い服を着て、普段は隠しているんだろう。しゃがんだから初めて見た。これまでの視点からは見えなかった。
知らないこと。
見たことないもの。
おそらくもっとある、ゲンの。
これまで千空に向けたことのない顔を、恋人である千空には向けるのだ。きっと。見たことない、知らない、存在を認識していなかった『恋人のゲン』なら。
なんせ恋などしたことのない千空が、記憶を失っていたといえ恋人にした。これまでゲンをそういう風に見たことはないのに。つまり、記憶喪失中の千空は、これまで会ったことのないゲンに会ったのだ。そして脳のバグをおこした。
今、この場にいる千空は知らないゲン。これまで見たこともない相手。
例えばそれは、照れればうなじが赤くなるとか、素直に気持ちを伝えられれば受け止めきれず唸るだとか?

「テメーと恋人のままなら、これまで見れなかったことが見れるだろ」
「つまり千空ちゃんは、俺の恋人向けの態度が見たいから好きでもないのに恋人になろって言ってんの?」
「一番手っ取り早いだろ。つーか恋人なんじゃねえのか、まだ」

別れた記憶はねえぞと言えば、千空ちゃんとおつきあい始めた記憶もないよと返ってくる。
なんでだ。恋人してたってさっき言ってただろ。

「バイヤーすぎ……も少し情緒とか色々大事にしなよ。そりゃ記憶なくしちゃった千空ちゃんの恋人はしてたけどさぁ、今いる千空ちゃんとは別人じゃん。自分でも知らねえヤローって言ってたでしょ」
「おう、同一人物って自覚は正直ねえな」
「つまり俺の恋人千空ちゃんと今ここに居る千空ちゃんは別の人、恋人ではありません。少なくとも俺の中では。オッケー?」

ゲンの言うことは間違っていない。
確かに千空はゲンに恋愛感情を持っていないし、興味本位で男に恋人面されるのは迷惑だろう。
だが、少なくとも先日までの千空は。記憶を失っていた、今この場にいる自分は把握していない『千空』は知っているのだ。千空は知らないゲンのことを。
この目は見たはずなのに。耳は聞いただろうに。手は、触れたのだろうか。
千空の肉体が経験したはずの記憶が、情報が、ない。全て記憶喪失だったとかいう知らない男のものだ。今ここに何もない。持っていない。

「……んだよ、同じツラで同じ身体だろ。テメーに惚れたら満足かよ」
「別人認識だから好きになられても振っちゃうだけなんだよねぇ、残念ながら」

確かに一度手に入れただろう知識を失ってしまったことに納得がいかない。

 

◆◆◆

 

あからさまに不満です、と顔をしかめている千空を前にゲンはため息をついた。
面倒くさい。なんでこんなことになってるのか意味がわからない。旧世界ではまだ高校生の千空に手を出したのは、そりゃ褒められたことじゃないけれど。でも恋人なんて言ってもせいぜい手をつないでちょっとキスしたくらいなのに。挨拶でしょ。舌のひとつも入れてないのに、神様ちょっと罰が多すぎない?

「もー、全然覚えてないんだよね? じゃあ無いのと同じでしょ。こだわらなくてもさぁ」
「そりゃテメーに言いてえ。なに操立てしてんだよ」
「操って」

なんてこと言うのだ。昭和か。まるで若者らしさのない単語の選び方に吹き出せば、違うのかよとまた拗ねた声を出す。
ああずるい。千空は本当にずるい。愛されて育ってきたからだろう、無自覚に甘えて我を通すのがとんでもなく上手いのだ。
記憶喪失中のことはまったく覚えていないと言っていたけれど、意識の深層部には刻まれているのだろうか。だからこそ、ゲンに興味なんてないくせに恋人という言葉に引きずられて。

「仕方ないねえ千空ちゃんは」

意識してほんの少し甘ったるく語尾を伸ばせば、譲られたと思ったんだろう。ぱっと表情が明るくなる。
ずるくて、かわいくて、どうしようもない。誰だこんなに甘やかして育てたの、って知ってる白夜パパと大樹ちゃんだ。杠ちゃんあたりも怪しい。こんなに一人で生きていける力があるくせに寂しがり屋で一人が嫌いな子、そりゃかわいいだろうけど。かわいがるけど。
自分も千空にたいがい甘い自覚のあるゲンは、けれど今回に限り譲らない。

「でもダメー。俺の恋人はナシ空ちゃんでアリ空ちゃんではありません! 残念無念まったらいしゅ~」
「おいアリクウナシクウってなんだよ。こっちオリジナルだぞ、普通に呼べよ」
「長いんだもん、記憶のない千空ちゃんって」

思い出せない状況があまり理解できない、と以前言っていた。覚えていないことはあっても、記憶したものは思い出せるのだと。聞いたときは記憶力オバケっぷりにひたすら驚いたが、それはつまり己を把握していない時はないということだろう。
記憶にない、思い出せないのは千空にとって初めての体験だ。落ち着かないのもわかる。ど忘れしたものを思い出せないのは気持ち悪いし、忘れてしまえばいいのについ考えてしまうのはゲンとて経験したことがある。だからこそ、思い出すために恋人関係をゴリ押してくるのだろう。
けれどゲンは頷けない。千空の恋人にはなれない。
そう、約束したのだ。

 

 

 

石神村において千空の記憶喪失があっさり受け入れられたのは、大した問題にならなかったからだ。
通常想定される反応、例えば「おまえら誰だ」と不審者を見る目をするとか、こちらの伝えた情報を信じられないと飛び出すだとか、受け入れられず夢だと思いこむだとか。
そういった一切合切はまるでなく、朝一番に顔を合わせたクロムが何か妙だと言い出さなければ、下手すれば気づかれなかったかもしれない。そのクロムが気付いたのも、千空からの依頼で集めた鉱石を珍しいと喜んで見ていたからだというからどうしようもない。確かにあの石はヤベーけどなんで今更って思ったんだよな、じゃないんだよもうちょっと違うところで気づいて。記憶を無くした当人といえば、敵意はなさそうなんで様子を見てたとうそぶくばかり。

見知らぬ場所で初対面にしてはフランクすぎる人間に囲まれている、という状況から記憶喪失を想定するのは十代の少年にしては落ち着きすぎだとゲンは思うけれど。それでも、いきなり石化より驚くことはなかなかねえよと言われればその通りだ。
名前や場所を聞くだろうから、と村全体に千空のここ最近の記憶が失われていることを周知した後は自己紹介大会になった。なんだかんだ慕われている村長である。皆ここぞとばかり名前を告げ、これは覚えているかあれはどうだと話しかけに来た。一日中人気が絶えなかった千空は、日が落ちる頃にはへろへろになりつつ村の皆を覚えた。
なにもわからない、覚えてないなんて外見からは想像もできない。一日でコハクに会って以降のことを記憶した千空は、二日目には普段と変わらぬ行動をとった。なにを作るか、どこまで進んだか。これまで書いた設計図やカセキ、クロムの作品を見ては興奮している姿はなんの心配もないように見えた。これ記憶戻ってるんじゃないの? 戻らなくてもなんの問題もないんじゃない??

ひどいことをしたな、とゲンが自覚したのは三日目の夕方だ。
世界にたった一人で復活し、大樹と杠、司以外の人間の存在すらあやふやだったのだ。ここに居る千空にとっては。
復活を誓い、司と敵対し、友と別れ。人、に集団に、どれほど飢えていたのか。それはおそらく千空本人が自覚している以上に。
作業の合間、移動中、ふと向けられる視線。ひどく嬉しそうで妙だと思ったのだ。ゲンの知る千空は、感情を素直に表に出す人間ではない。無表情ではけしてないし表情筋は豊かだが、こんなに正直な表情を作りはしなかった。
元から人の好きな男ではあった。なんだかんだと子供にも懐かれ、気安く話す。壁を作らない。記憶を失っても変わらない。けれど、変わったこともある。

「結構慣れた? 一気に来たから名前覚えるの大変だったんじゃない?」
「あ゛~、まあこれくらいの人数なら別に。向こうからがんがんくるからよ」

構われることも好きなんだ、と思う。ゲンの記憶にある千空は、科学の力で村を掌握したためか、もっとリーダー然としていた。いや、自覚していたのか。自分は余所者で、村長の地位をかっさらった異分子だと。
私の名前誰だ当てを子供たちに挑まれている今の姿は、記憶にあるより少し幼い。

「いい村だよねえ」

自分たちのことを全て忘れてしまった、と言う相手に怒りをぶつけるでもなく名前を告げに来て。いの一番に現れ「俺様の名を刻み込め!」と叫んだマグマにはつい笑ってしまったが。

「そーだな。ったく、忘れられたってのに気ぃひとつ悪くしねえで、わざわざ名のりに列つくんだぞ。体力ないからここで倒れただの水瓶かわりに持ってやっただの好き勝手言いやがって」
「ひゅーひゅー、愛されてる~」
「おう」

ちょっとしたエピソードなんかあると覚えやすいかもね、と言ったのはゲンだ。まさか村長とのエピソードがミジンコ体力情報ばかりになるとは想像もしていなかったので。

「あ゛~、だから……なあテメー、メンタリストなんだろ」

ひたりとゲンに向けられたまなざしはすがるよう。誰に。どうして。ゲンに?

「じゃあ知ってるか? こういう健忘の症状の治療に催眠術もあるだろ。できるか?」
「確かストレスが原因の時なんかにだよね。催眠術はかじったことあるけどさすがに治療はリームーよ? ああいうのは原因にアプローチすることで記憶を戻そうってやつだし」
「あ゛~、さすがにそううまくはいかねえか」
「脳の領域だからねえ、軽い気持ちで手ぇだすのはバイヤーでしょ」

記憶を失って三日目、ゲンの目から見てもとくに問題は起こっていない。
対応がよかったのか千空が落ち着きすぎていたためか、混乱もなく村は常通りだ。普段より相手をしてくれるから、と子供たちが積極的に千空に絡みに来ているがこれは問題ではないだろう。

「思い出したくなることでもあった?」

優しげな笑顔を向けても今の千空は怪しまない。科学王国のメンタリストだ、と教えられたからゲンに相談を持ちかけたのだ。記憶がある時ならしない。こんな風に、あっさり他人に腹のうちを見せるようなこと。

「早く記憶のある俺を返してやりてえんだが、どうしたらいいかと」

ひゅ、と息を吸い込んだ音が聞こえなかっただろうか。
聞こえていないといい。ゲンはただ微笑んでいるだけ。仲がいいね、平和だねと笑っている。それがいい。そうでないといけない。

「なるほどねー」

いっそ記憶なんて戻らなくても問題ないんじゃないかと考えていた。
忘れることにも意味はある。その記憶があることでストレスがかかる。負担が大きすぎると脳が判断してアクセスできないようにする。あまりに辛いことも楽しいことも、人間は覚えたままでは生きていけない。鮮やかすぎる過去は現在と区別がつかない。
だからこのままでも構わない。皆受け入れられる。ゲンはそう、思うのに。だってあんまりにも千空がうまくやっていたから。そりゃこれまでを忘れられるのは少しさみしいけれど、でもこれからいくらでも積み重ねていけるのに。
それなのにキミは、まるで別人に入れ替わるみたいな言い方をする。

「思い出せないのがもどかしい?」
「いや、忘れちまったのが申し訳ねえとは思ってるが、こればっかりは仕方ねえからな。まあでも、あんまり望まれてっから」

ゲンにとって、皆にとって、千空は一人だ。記憶のあるなしに関わらず、今目の前にいる彼が千空。
けれど千空にとっては。記憶を失った彼には、記憶のある自分は同じではないのだろうか。
もう思い出した? 本当に忘れちゃったの? そのうち思い出せるよがんばって。
皆軽い気持ちで、千空に負担をかけないように明るく。そう、名のる者は口々に彼に伝えただろう。慕う気持ちそのまま、善意で。
もし同じでないなら。分けて考えているなら。千空にとって記憶のあるなしで別人扱いならば。

「記憶のある俺を皆が待ってるんだから、早く代わってやらねえとな」

まるでもう一人千空が居て、向こうはさらわれてしまったようなことを飄々と言う。ドラゴンにさらわれたお姫様を取り返しに行くみたいに? バカバカしい。

「覚えてねえが、こんだけ懐かれてんだ。記憶のある俺はなかなかうまいことやったんだろ。これから戦争しようってんだ、馴染みのある村長をなるべく早く用意してやりてえだろ」
「チケットご用意しました、みたいに言われてもねえ」
「勝ち戦への招待券か? ぜひともご用意してもらわなけりゃな」

クククとのどをならすような独特の笑い方は変わらない。
顔も身体も科学への熱意も、あんまりにも変わらないからこのままで問題ないとまで考えていたのに。こちらは。
なのに本人だけは、別人のつもりでいるなんて。
返してやる、なんてさらったわけでもあるまいに。勝手にドラゴン気取りで、戻してやりたい、なんて。

「俺のこと受け入れて、俺の指図で戦争なんかしちまって。覚えてねえのに。もしあいつらが死んじまっても、俺は思い出話のひとつもしてやれねえ。忘れてっから。あいつらがあんなに嬉しそうに話してくれること、なにひとつ知らないんだ、俺は」

違う。キミを責めたいんじゃない。思い出せと強要したいわけでも。
ただ懐かしいから。こんなことをした、あんなことをしたと。千空と過ごした日々が誇らしいから。
だから皆は話しただけで。この間までの千空と今ここにいる千空を分けて考えたりしていない。記憶がないなら新しく思い出を作っていけばいい。思い出せたらいいねはただのお見舞いの言葉、心配してるよを伝えているだけの。

「だから、早く返してやりたい」

思い出してね、は。
別人格だと認識している目の前の彼にとって、消えてねと同じ意味だ。
たっぷりの好意と善意で固められた、千空の消失を願う言葉。

「ああ、でもせっかく俺に話してくれたアレコレは、覚えといて損ねえよな。……テメーに頼むわ」

口を開いて、舌が動かないからそのまま閉じた。常なら湯水のように流れ出る言葉が、なにもでない。
なんだこれ。ああ、なんなんだこれは。バカ。信じらんない。むかつく。ちくしょう、なんなの、ああもう。
荒れ狂う胸の内をそのまま声に出してはいけない。相手が受け取りやすい形に整えて、投げつけるんじゃなくキャッチしやすいようにやんわりと。

「千空ちゃん」

なんてバカなんだろう、この子。
自分は望まれていないからと消えるつもりで、そのくせ与えられた優しさは大切にしたくて。
忘れてしまった自分を悔いて、だから今のことは覚えておきたくて。別人としか認識できていない『記憶のある自分』に託してほしいと願ったのだ。ゲンに。
バカ。勝手にこっちを巻き込んでそんなどうしようもないバカなことしないでほしい。信じられない。なんでこんなバカなこと考えてるの。いつもの回転はどこへいった。頭いいくせに、すごい考えいっぱい思いつくくせに、なのにどうしてこんなに。
ゲンに、頼ったのだ。目の前の千空は。

「俺をあげるよ」

記憶なんてなくても変わらないと思っていた。
だけど違う。目の前でぱちくりとまばたきしているのは、千空よりもまだ幼げでかわいそうな子供。
自分のものはなにも持たず愛情一杯に消滅を望まれ、自分に向けられた好意さえも他人に託すバカな子供。
なんで別人なんて設定にしちゃったの、バカだね。記憶なんてあってもなくてもいい。ほんの数か月、もう一度はじめましてをやり直すだけ。村の誰も責めていない、ここに居る千空と共に科学王国を盛り上げていくつもりで。
だけどそれでもいい。千空が別人だと設定したなら乗ろう。ゲンは勝ち馬に乗るのだ。もう一つ乗る物を増やしたってたいしたことない。

「あ゛あ?」
「村の皆との思い出も好意も感謝も、これまでのことは全部記憶のある千空ちゃんのものなんでしょ?」
「そりゃそうだな」
「記憶がない千空ちゃんとした事も話した事も、村の皆との思い出は記憶が戻った千空ちゃんに預けるんだよね」
「そうしてくれるとおありがてえな」
「じゃあ千空ちゃんにはなにがあるの」
「……別に俺は」
「今ここで俺と話してる千空ちゃんは、なに持ってるの。やだよ俺、なにも持たない身軽な千空ちゃんがふわふわ~って浮いていっちゃったら」
「んだそりゃ。どこにも行かねえよ」
「うん、行かないでよ」

こんなもの言葉遊びでしかない。記憶があろうとなかろうと千空は一人で、ここに居る。

「俺が重石になったげるから、持ってて」

それでよかった。
プレッシャーをかけない程度に、でもきちんと誠意は伝わるように。
記憶の有無じゃない、今目の前にいる千空が大切なのだと。必要なのだとわかるように。
そっと左手をとった。荒れた指先、乾いた手のひら、びくりと取り戻すよう動いたけれど離さない。初めてだ。千空と顔を合わせてから今日までずっと、手なんてつないだことない。だからこれは、今が初めての行為で。

「テメーは、……科学王国の、だろ」
「うん、メンタリストの俺はね」

両手できゅうと握りしめる。すがるような力の強さに戸惑うまなざしは幼く、ゲンはまるで犯罪者にでもなった気分だ。
いや、犯罪者になるのだろう。なんせこれから未成年をたぶらかそうというのだから間違いない。旧世界では百パーセント犯罪であったが、石世界でも同じだろうか。できれば大目に見てほしい。

「だから恋人の俺をあげる。ねえ、持っててくれる? 千空ちゃん」

全ては記憶のある千空のもの。これまでもこれからも、なにもかも千空のものでこの手に残るものはなにもない。
それで目の前の子供が納得しているのがゲンは許せない。

「こ、いびとって」
「記憶のある千空ちゃんは持ってないよ。だって俺のことそういう意味で好きじゃなかったから。正真正銘、今ここにいる千空ちゃんにだけ」

同一人物だ。記憶のアリナシなんて知らない。
だけど本人が別人だと言うなら、そうとしかとらえられないなら仕方ない。理屈で割り切れないことはいくらでもあることを、ゲンは知っている。どうしようもないことには、まず沿ってみればいいのだ。

「メンタリストの俺は科学王国のものだし、あさぎりゲンは記憶のある千空ちゃんの知ってるインチキマジシャン。で、恋人の俺は」
だってすがるようにゲンを見ている。
「記憶のない、俺と手つないでる、この千空ちゃんの」

なにもかも自分のものじゃないと手も伸ばせず、受け取れず、周囲への好意から自身の消滅を願うかわいそうな子供がいるのだ。
ゲンがすべきことなんて、手品を見せて笑わせてやることだけ。
泣くのを我慢している子供にしてやることなんてそれだけだろう。

「恋人なんて、記憶が戻ったら」
「メンゴだけど振っちゃうね。だって千空ちゃんじゃないでしょ?」
「……俺だが」

わざとらしく舌をだしてやれば、苦々しい表情をつくってみせる。
ほら、こんなのがいい。
ふてぶてしく笑って、ちっともかわいそうじゃない科学王国のリーダーでいなよ。

「記憶が戻ったとたん恋人に振られるなんて、おかわいそうなこって」
「こればっかりは仕方ないよね、諦めてもらお」

笑い声は楽しそうだったけれど、手はつないだままだった。
あまりに千空がうまくやったので油断したのがいけなかった。どれほど頭がキレて3700年もの長い間意識をとどめたままであれる精神力があっても、それでも。彼はまだ十代の子供だ。
記憶喪失なんて非常事態に一人放り出しておくべきではなかった。
回転のいい頭は放っておくと違う方向にも勢いよくどんどん進んでしまう。せめて傍にいて止めないと。止められないまでも、方向くらいはどうにかしてやらないといけない。身近にいる大人として、同郷の人間として。
その程度の情は、ゲンはとっくに持ち合わせている。司を裏切って千空を選んだのだ。メンタルケアでどうにかなることならどうにでもしよう。

「ねえ、俺はキミがいいよ。千空ちゃんがいいよ」
「……おう」
「俺が恋人になるのは、今手をつないでる千空ちゃんだけだから」

つい唇を奪ってしまったのはやりすぎたかなと反省はしている。盛り上がったので仕方ないかなとは思うけれど。