負けるが勝ち

「重い」
「メンゴ~。じゃあどくね♡」

腹の上にべったり張りついていた柔らかな身体がやっと離れると安堵の息をつけば、ゲンは下半身だけベッドにずり落ちた。
最大の難関がまだ残ってるじゃねぇか。

「おい」
「『たいした大きさでもねぇただの脂肪の塊』くらい乗ってても重くなんてないよね?」

ご丁寧に声帯模写で先日の千空の発言をなぞったゲンは、にこやかに言い放った。
怒っている。
他人の感情の機微にうとい千空とてわかる。これはものすごく、怒っている。
なんとか機嫌を直してもらう言葉を必死に考えるも、何一つ思いつかない千空はそっと視線をそらした。

 

◆◆◆

 

そもそもは先日の千空の発言が悪かった。それは認める。
彼女がデートの時に着てきた服をけなすような発言は怒られてしかるべきだ。自分だってろくな恰好してねぇくせに他人様に何口出ししてんだって話だ。

だが、あの日のゲンの恰好はあまりに煽情的すぎた。
胸の上部分に切れ目が入りピタリと体の線をひろうセーターは、とんでもなく人目をひく。こういうデザインのニットだよ、と笑われたが意味がわからない。セーターだぞ? 冬に着るもんだ。なんでわざわざ胸放り出して寒くする必要がある。
首や肩は覆っているのに胸だけ布がないからやけに視線がそちらに向かってしまう。ゲンが動くたび胸がより、谷間が浅くなったり深くなったり。

……指つっこみてぇな。別にいいんじゃねぇか? それ用だろ、それ以外に活用方法あんのかあの切れ目に。こんな服着てきたってことはこいつだってそれを望んで――。

ではない! 指が動きそうになってやっと気づく。
ここは外で、周囲には二人以外にも人がいて、それどころかゲンは待ち合わせ場所まで一人で来たのだ。こんな格好のまま。
どう、唆る? ご機嫌に笑うゲンはたいそうお可愛い。千空の反応が悪くないことなどとっくに気づいているのだろう。ああそうだ、とんでもなく唆る。そしてその感想は千空だけのものではない。
気づいた途端わきあがったのは、どうしようもない不快感。

ゲンで不埒な妄想をするな。これは俺のだ、俺だけのゲンだ。誰一人として見るんじゃねぇ。
他人の心の中などどうすることもできないし、ゲンが好きな服を着ることも止められない。わかっている。ゲンは誰のものでもない、千空の希望通りに動く人形じゃない。
わかっていても、千空は開く口を止められなかった。
かわいいと。よく似合うという言葉を求めているだろう彼女様に対して、言ってはならないことを口にしてしまったのだ。

「んなもんしまっとけよ。でけぇならまだしもたいした大きさでもねぇただの脂肪の塊、ありがたがるもんでもないだろ」

 

◆◆◆

 

すらりとした姿はただでさえ人目をひくのに、より魅力を足さないでほしい。他の男に見せたくないから、そういう服を着たいなら俺と二人きりの時だけにしてくれ。
冷静になれば千空とて自身の言葉選びが間違っていたとわかる。
思っていることを素直に伝えればよかったのだ。ゲンならきっと、笑って「じゃあお家デートの時に着るね♡」なんて言ってくれたに違いない。

わかっている。今ならばわかっているけれど、胸から視線をそらすことに必死だったあの日の千空はわからなかった。いや、動揺しすぎてろくに脳が働いていなかったに違いない。しょっちゅう照れ隠しにつく悪態を、ゲンが笑って許していてくれたのに甘えていたのもある。
だからドイヒーと笑ったゲンがどれほど怒っていたのか、その時は気づかなかった。
いつも通り仕方ないなぁと甘やかしてくれたとさえ勘違いして。

「あれ? なんかお腹に硬いの当たっちゃってるけど~……まさか千空ちゃんのじゃないよね?? ありがたくもなんともない脂肪の塊でおっきくなるわけないよね~」
「……ゲン」
「なんか胸ゴイスー見られてる気するけど、ほっぺ出してるのと変わらないから気のせいだよね? 皮膚の下に脂肪が多めに入ってるだけの部分だもんねぇ」
「乳腺もある」
「え、言うに事欠いてそれ?」

好きな女の胸が体に当たっていればエロい気分になるし、目の前にあったら見る。見るだろそりゃ。
白く発光しているかのような胸はすべらかで、温かく、いい匂いがする。知っている。何回も揉んだし舐めたし吸った。やわく噛めば甘ったるい声でねだるように止められるのだ。やめてほしくないくせに。ああ、へたに知識があるからこそよけいに肉体が反応する。なんでこの状態でお預けをくらっている。おっきくなるわけないよね、じゃないのだ。ガチガチになるに決まってるだろうふざけるな。

わざとらしく声をあげるゲンは、腹で千空を刺激しつつけして決定打は与えてくれない。
なだめるように額にキスされても、目の前にごちそうが並んでいるのだから落ち着けるわけがない。

「千空ちゃんは女の子のことエッチな目で見たりしないもんね~」

見る。
テメーの腹を押し上げてるのは何だと思っているのだ。胸に手を置いているんだから千空の心音が爆速なことくらい把握しているだろうに。
とんでもなく楽しそうに笑うゲンは、弱らせた獲物で遊ぶ猫に似ている。いっそ一息にトドメをさしてくれ。

「あ、でももっと大きい胸だったら千空ちゃんもエッチな気持ちになったりしちゃうかも?」

鎖骨も肩も丸出しの大きく開きすぎた襟ぐり。上半身どころか全身のラインがわかるほど体にピタリと沿ったワンピース。
不特定多数にエロい目で見られる服のパワーアップバージョンで現れたゲンは、満面の笑みで「これからずっとこういう系でいくから」と宣言した。百パーセント、ケンカを売られている。

そこで謝ればよかったのに、風邪ひきそうな恰好だな気ぃつけろよ、などと謎の意地を張ってしまったのは痛恨のミスだった。
バカか。脳がバグるにも程がある。エロい格好に鼻の下伸ばしたりしませんよアピールは別の機会にしろ。今は必死に、大変唆りまくるが心配なのでもう少し布面積の大きい服を着てくださいと頼みこむ場面だ。
それなのに選択肢を誤るから、こんな状況に陥ってしまっている。

「ゲン」
「それとも寒くなっちゃった? 風邪とかジーマーで心配だから俺が温めてあげちゃう!」

ぎゅうと頭を抱き込まれ、大きく開いた胸元に鼻先が突っ込みそうになる。
あ、これはこのまま抱きしめてなし崩しにできるのでは。なんだかんだゲンは千空に甘いから、悪かったと伝えればもういいよと許してくれるかもしれない。
都合のよすぎる考えは、伸ばした手を肘でガードされた時点ではじけて消えた。

「あ、でも脂肪の塊だから冷たいか。ざーんねん」

ダメだ。
これはダメだ。誠心誠意謝って、謝って、謝り倒さないとどうにもならないやつだ。
格好悪いだのなんだの言ってる場合じゃねえ。ここでミスったらトライアンドエラーすらできねえ。

 

 

 

情けなくて隠していたあれもこれもを白状し土下座の勢いで謝り倒せば、俺の勝ちだとゲンがにんまり笑う。これから一生このネタでチクチク責めてやろ、なんてうかつに生涯をかけるようなことを言うほど勝利に浮かれているのか。お可愛いにも程がある。
一生どころか地獄まで、と以前から準備していた指輪を渡せばきっと格好がつく。先ほどまでの情けない姿を上書き保存できるかもしれない。
それでも千空は、ようやく抱きしめることを許されたゲンを堪能する方を選んだ。

どうせこれからも格好悪く情けない姿を見せるだろう。ゲンを目の前にすると脳が常通り動かないのだから仕方ない。自分はそういう仕様なのだと認め運用していくしかないのだ。ゲンが呆れたり嫌ったりしないならそれでいい。今、千空の腕の中で満足そうに笑っているのだから問題ない。

「千空ちゃん負けたのに全然悔しそうじゃないね」
「あ゛? テメーが笑ってんなら俺の勝ちだろ」