ロマンスだけちょうだい

浅霧幻は、自身を欲深な方だと自覚していた。
幼い頃から欲しいものは手に入れてきたし、好きだと思った相手には好かれるよう行動した。人間関係も学業もマジックも、努力すれば結果は必ずついてくる。
努力すればなんでもかなう、とは言わない。結局は生まれ落ちた環境が良かったのだろう。周囲に恵まれていた。己だけの才覚だ、なんてうぬぼれたりはしない。
あさぎりゲンとして芸能界で活躍するようになってからも、欲はとどまるところを知らなかった。
本も出した。看板番組も持った。
もっと。もっと有名になって、もっとマジックを見てもらって、もっともっともっと。
その努力が3700年の石化によってぷつりと途絶えさせられた時、ふと考えた。また同じことを繰り返すのかと。

カードがなくとも小石があればコインマジックもどきなら見せてやれる。花で目くらましをしてもいい。文明レベルが底辺に落ちたこの世界でも、皆を一時夢の世界へ連れていくことは可能だ。
だがそれでどうしよう。
その後、なにを目的にすればいいだろう。
石化前、自分は何をしようとしていたのだろう。

あれもしたいこれもしたい、そう求めるにはこの世界にはなにもなかった。ゲンの愛したエンターテイメントがなにひとつ。
ワクワクするもの、未知のもの、うれしくて楽しくて笑顔になるそんな。
ゲンが失ってしまったと思ったそれは、いつからか一人の少年の姿をとっていた。

なにもないから作るのだと、なにもないと諦めようとしていたゲンを引き戻すように光を作った。わからないことがあれば目を輝かせ、人類復興なんて壮大すぎる夢を当然の未来として語る。
ありえない、できっこない、わけがわからない。
彼に影響されるように、ゲンもまた変わったのだろう。いつからか、彼の隣にいるのが楽しくなった。無駄な努力をと呆れて見ていたはずが、次はなにをするのだろうと心弾むようになって。
これまでと同じように生きるのは難しくはない。規模が小さくはなるが、人口が増えるに伴い大きくはできるだろう。それなりに努力をして、そこそこ有名になって、そうして。石化前にしていたように、無駄なことをせず定めた目的に向かって、その後。
石化までしたのに、どうして同じことをしなくてはいけない。
違うことを。これまでしたことないことをしてみたい。いや、しなくてはいけない。だってゲンの隣には彼がいる。未知を喜び見えぬ未来を確実と語る、たった一人で復活した彼が。

そうしてあさぎりゲンは、石神千空に失恋することにした。

恋はしたことがある。恋人もいた。
けれどゲンは失恋をしたことがない。
別れは常に円満で、お互いに愛情が薄れてしまったからと友人に戻るものだった。恋に落ちる、と言うほど唐突に誰かに好意を抱くことはなかった。なんとなくお互い好意を抱き、ゆっくり恋人になる。その過程において失恋などおこるわけがない。
相手の好むようにふるまい、好意を伝えればフリーであれば確実につきあえる。ゲンにとっての恋愛はそういったものだったから、噂に聞くような失恋など想像もできない。
だからこそ、してみたい。未知の経験をしたい。
そして千空は失恋相手として、完璧だった。

失恋するためにはまず恋をしなければいけない。恋は理屈ではないと知ってはいても、ゲンとてあまりに好みから外れていては難しい。
その点千空はきりりとした美形であったし、ゲンより背も低くミジンコ呼ばわりされるような少年だ。これまで恋愛対象が女性のみであったゲンにとって、ムキムキでむさくるしい大男よりずっと好意を抱きやすい。
少々口は悪いが十代の少年などこんなものだろうし、ゲンに親しみを感じているということだろう。理性的で合理的、情に厚く仲間を見捨てない。
顔も頭もよく一緒に居て楽しい。これで好意を抱かないわけがない。好意を抱けるなら恋まではすぐだ。ゲンはさっさと落ちた。好きだと言葉にもしておいた。気持ち悪いと返ってきて、さすが千空ちゃんと一人盛り上がる。
そう、千空は完璧なのだ。失恋相手として。
恋に落ちるだけではいけない。失恋するには、千空から恋情が返ってきてはいけない。きっちりはっきり振ってもらい、初めてゲンの失恋は完成するのだ。

親しい相手からの好意は断りにくい。相手の事をそこまで好きでなかったとしても、今後の関係性を考え気まずくなりたくないとあやふやにごまかしたり流されたりすることは多い。
だが千空なら断ってくれるだろう。ゲンに同盟相手としての好意はあっても、それは恋ではないからと。彼のまっすぐな潔癖さを、ゲンは信じている。千空なら流されて受け入れたりしない。どれほどゲンが科学王国で有用になっても、それはそれこれはこれと割り切れる。なんせ天文台なんて大仰なプレゼントをもらったすぐ後でも関係なく、気持ち悪いと言い切れるのだ。

「さすが千空ちゃん。やっぱ俺、千空ちゃんのこと好きだなぁ」
「ほーん、わりとじゃなかったのかよ」
「わりと好き、だよ? 好きには変わりないでしょ」

千空に恋をして以来、思いもよらなかったプラスの効果がある。
どんな『ドイヒー作業』でも、千空の役に立つのだと思えば通常以上にがんばれてしまうのだ。ゲンとてメンタリストとしてそういうものだと知識はあったが、自身で体験するのは初めてだ。
顔を見れば気分が上がるし褒められればモチベーションもアップ、あふれる好意をつい言葉にしても千空は拒否することなくさらりと聞き流してくれるから気も楽だ。冗談か親愛だと思っているのだろう、鈍いところもすばらしい。

この頃になると、ゲンはなるべく長く千空に恋をしていたいと考えるようになっていた。
石世界は生きにくい。旧世界に比べ圧倒的に生きるためにエネルギーが必要だ。好きな相手のためにがんばる、はとんでもないエネルギー貯蔵庫だ。この状況で振られては、モチベーションが保てない。生き抜くためにも、なるべく長く千空に恋をし『彼のために』と己を奮起させたい。
だからこそ千空にはゲンの気持ちに気づかぬまま、できれば復興後まで鈍くいていただきたい。それなりの文明レベルになればきっちり振られ失恋するつもりはあるので。
おそらく問題ないだろうとゲンは予想していた。
恋愛を非科学的だと言い切り、純情科学少年は復興後と宣言していた千空だ。そうやすやすと誰かとつきあったりしないだろう。
たとえ誰かに恋をしても、そんな状況ではないと気持ちを抑え込むに決まっている。
もしくは復興後まで待つと決め、切り替えるか。
千空が誰かに恋をしても、口にしなければ、ゲンが気づかなければ失恋はしない。
ゲンがどれほど好きだと告げても、千空が本気だと悟り断るまでは恋は終わらない。

これはかなわぬ恋だ。
勝手に片思いをするには千空ほど最高の相手はいないだろう。
どれほどゲンが千空を落とそうとしても落ちてはこない。恋は成就しない。
ゲンの片思い生活は輝かしいものだった。

 

◆◆◆

 

そう。輝かしいもの、だった。過去形。
おかしいな、とはちょくちょく感じていたのだ。
同盟を組む名目でしかないコーラがゲン専用ドリンクのようになっていたり、軽く渡されたトランプが妙に凝っていたり、千空の隣はゲンだと言わんばかりの行動をとったり。
ひとつひとつは小さく、些細なことだった。そのたび理由があったから見過ごした。
ゲンだけ、ではなく他の皆のためにビールだなんだと用意されたから特別扱いではないとスルーした。
かわいい女の子たちに騒がれても気づきもせず、工作クラブでワイワイ騒ぐ方がよほど楽しそうだったからまだまだ幼いのだと安心して。
目の前で真っ赤な顔をしてぶすくれている千空を前に、ゲンは失望で倒れそうだった。

「バカみてぇに繰り返してたじゃねえか。……テメーは俺が好きなんじゃないのかよ」
「好きだよ」
「弟みてえとかそういうヤツじゃなくて」
「うん、千空ちゃんのこと恋愛感情で好き」

ぱっと表情を明るくする千空に、でもおつきあいはしないよと再度告げて、どう説明しようかと頭を悩ませる。
ゲンはできないことをしたかったのだ。
失恋、したかったのだ。
コーラにトランプ、防腐剤、爪やすり、ハンドクリーム。ゲンの目の前に並べられたいくつもの。
欲しいと願ったものもあれば、あれば助かると気軽に口にしたものも。特に求めていないものまであれこれと。

「テメーの欲しいもんはなんでも作ってやる」

ずらりと並べられる品物は千空からの好意だと知っていた。
恋、だとは思いもしなかった。

「全部復活させる。なんでも言え。俺に言え」

そんなものほしくなかった。

「俺にだけ、言ってくれ。ゲン」

なにも欲しくなかった。
ただ好きだと言えればよかった。好意を返してほしくなど。

「千空ちゃん」

ゲンの目の前に並べられた、千空の好意。たくさんの品物。どうしてか色あせてしまった、なにもかも。
欲しかったのだ。確かに。うれしかったのだ。千空からもらった時は。
どうして。

「俺、片思いがしたい」

首をかしげる仕草は幼いのに、続く肩はがっしりとした大人の男のものだった。
もうとっくに少年じゃない。ゲンの知らないうちに勝手に恋なんてした男は、期待のこもったまなざしを隠すこともしない。
そりゃそうだ。だってゲンは隠していない。無邪気に何度も、ただただ好きだと口にした。千空への好意を大っぴらに表明していた。
断られるなんて想像もしなかっただろう。

「千空ちゃんに片思いして、その後ふられたいんだ。失恋したいんだ」

好きだよ。
だから好かれたくはない。

「……失恋?」
「うん」
「俺がテメーにするんじゃなくてか」
「逆だねぇ。メンゴ、俺、よくばりなんだよ。せっかく告白してくれたけど、欲しいのはそれじゃないから」

人は面倒をみた相手に好意を抱きやすい。こうも尽くすのは相手の事が好きだからに違いない、と自分で思い込んでしまうためで、それもあってゲンは過剰に千空の世話を焼いた。これだけ入れ込み彼のために行動するのは好きだから、恋しているから。俺は千空ちゃんの事が好きに違いない、のだ。
まさか千空が、好きだと言われただけであっさり絆されるとは思いもしなかった。あれもこれもとゲンのためと作ってくれたのも後押ししてしまったのだろうか。
いや、石化前は高校生で復活してからも浮いた話などないのだから、もう少し気を遣うべきだったのかもしれない。純情科学少年の名は伊達ではなかったということだろう。

「んだそりゃ」

並べられた品物は、告白されたとたんまるで欲しいものじゃなくなってしまった。
こんなもののために勘違いさせられて、千空はなんてかわいそうなんだろう。
ゲンはいらなかったのに。こんなことになるならなにもくれなくてよかったのに。

「そんなわけわかんねえこと言うくらいなら、サクッと振りやがれ」

振られたいのだ。
振りたくなどないのだ。

「……好きだよ」

なんでもなんていらない。

「でもつきあえねえんだな」
「うん」
「わかった。告白は、聞かなかったことにしていい。……俺の事、好きなままでいるのか。これからも」
「千空ちゃんが嫌じゃないなら。ダメだったらちゃんと無くすようにするから」
「かまわねえ。これまで通りでいてくれ」

ぐ、と握りこんだ手が震えている。譲ってくれた千空に、こんな時だというのにまた胸が高鳴る。
好きだ好きだと言うくせに絆されれば片思いがよかったと突き放す、なんて意味のわからなさだと我がことながら気が遠くなる。
けれど、今千空に応えては失恋できない。
あれもこれもと欲しいものを並べてくれて、なんでも作ってくれて、だからなんてそれは。
ゲンが欲しいのはそれじゃないのだ。

ごめんね、欲深なので欲しいもの以外はいらない。

ああ本当に千空が告白を撤回してくれてよかった。これまで通りでいいと言ってくれてよかった。これでまだ片思いを続けられる。
千空の事を好きでいてもいい。

 

◆◆◆

 

そんなこともあったなと、ソファに座る千空を見ながらゲンはテレビ画面を指さした。

「あれどういうこと」

石神千空博士失踪、鍵を握るのはマジシャンあさぎりゲン氏か。千空の写真と共に流れるセンセーショナルな煽りになぜ自分の名前があるのか、きっちりはっきり説明してほしい。

「大変だな、あさぎりゲン。石神博士の自宅から、博士失踪にあさぎりゲンが関与してるって証拠が出たらしいぜ」
「へー、当事者でもないと知らない情報よく知ってるね千空ちゃん。ところで俺の目の前に失踪中らしい石神千空博士がいるみたいなんだけど」
「ああ、あさぎりゲンの自宅で発見されたらほぼ確実になんらかの関係があったっつーことだよな。失踪じゃなくて誘拐されたのかもしれねえな」
「あさぎりゲンに博士を誘拐する理由なんてないんじゃない? 一介のマジシャンだよ? だいたい一緒にどこか行きたかったら普通に声かけるでしょ」
「お互い時間が合わなさすぎてここ一年ほど顔もあわせなかったけどな」

当てこするような言い様にゲンはむっと眉をひそめた。
確かにゲンも忙しかったが、誘いを断った回数は千空の方が多い。まるでなにかに取りつかれたようにあれもこれもと研究していたのはそちらではないか。

アポ無しで自宅に押し掛けてきたうえソファを我が物顔で占拠している千空は、ニヤニヤと人相の悪い笑みを浮かべている。これは悩むゲンを見て楽しんでいる。腹立たしいことこのうえないが、ヒントが少なすぎてゲームのルールさえわからない。
いつからこんなにかわいくなくなったんだか。常に隣にいた頃しょっちゅう浮かべていたあくどい表情は、正面から見るとひたすらむかつくものでしかない。

「ああもう、降参! 種明かしなら早くしてよ、ただでさえよくない俺の評判どんどん悪くなっちゃう」
「売名行為ってか? んなことしなくても今じゃあ世界でも高名なマジシャン様じゃねえか」
「世界の石神博士失踪に関わってる、なんて悪名とどろいちゃうでしょ。しかもこれ主犯っぽい、ジーマーで俺が犯人みたいに流されてるもん」
「おう、そういう風にしてくれって頼んだんだ。やっぱり本職は違うな」
「は?」

楽しそうにテレビ画面を見ている千空の、言葉の意味がわからない。
それではまるで千空自身がこの状況を仕組んだと言わんばかりの。

「ゲン、昔俺がテメーに告白した時言ったよな。失恋したいって」

言った。
千空に失恋しようと考えていたから、告白されるなど想定外でつい本人に告げてしまった。
好意に応えたつもりが失恋したいからと断られるなんて、千空には申し訳ないことをしたと思ってはいたのだ。思うだけは。

「あれから色々考えたんだが、やっぱりちーともわからねえ。テメーから告白してくるのかとも思ったが、待ってても一向にそれらしきもんがねえ」

告白されてないよな、と問われ頷く。なんだこの会話。

「好きだつったら困った顔されて、テメーの喜ぶ顔見たいからってあれこれ作っても全然だ。そのくせ嫌われたかと思えば好意は感じる。純情科学少年にはちっとばかりハードモードすぎるだろ」
「その節はご迷惑を……」
「責めてねえよ。で、だ。失恋したいならさせてやろうと思ってよ」

まだ俺のこと好きかと問われれば頷くしかない。
復興後落ち着いたら告白して振られようと考えていたが、お互い忙しくなりすぎて顔もあわせられずタイミングがなかったのだ。
どうぞと促されてゲンは口を開く。
失踪だ誘拐だという話のネタ晴らしを聞くはずが、告白することになるなんて。シチュエーションにも凝る予定だったけれど、実際はこんなものなのかもしれない。

「千空ちゃん好きだよ、俺とつきあってください」
「悪いな、つきあわねえ」
「ううん、ありがと」

さらりと振られつい笑ってしまう。気まずく思ったり流されたりしないだろうという予想が大当たりだ。これなら今後は友人としてつきあっていけるはず。ゲンに罪悪感を抱き避けたりしたらどうしようかと思っていた。
断られても、恋情は消えていない。出会って以来ずっと胸の内にあったのだから、簡単には消えないのだろう。けれどいつかは消える。消える頃には失恋を実感し、つらくなったりするのだろうか。今はまだふわふわと実感がないけれど。

「……テメーは俺に振られて失恋した。これで満足か?」
「そうだね。これからしばらく凹むから千空ちゃんさっさとネタ晴らしして帰んなよ。ラボの子とか泣いてんじゃないの」

忘れていないとテレビを指させば、先ほどとは違うニュース番組だというのに内容はまったく同じ、石神博士失踪疑惑あさぎりゲンを添えて。番組数が少ないといえニュースが続くのは問題だなと頭の片隅で考える。

「バカ言え、こっからが本番なんだよ。なんせ俺はテメーを脅迫すんだからな」

ひょいと手を取られ、顔をのぞきこまれる。ああ、相変わらずきれいな顔をしている。だからこそ千空に恋をしよう、できると思ったのだ。

「ゲン、好きだ。俺とつきあってくれ。テメーのほしいもんはなんでもやる。俺のもんなら全部持ってきゃいいし、作るし、俺が作れないもんなら買うくらいの甲斐性もある」

違う。
いきなりの告白にとっさの一言が出ない。ぐ、と喉になにかが詰まって言葉にならない。
ああ違う。千空のものを取り上げたかったわけじゃない。買いそろえてほしいわけじゃない。もしかして復興後も必死に働いていたのは。

「お望み通りテメーは失恋したんだから、次は俺が口説いても問題ないだろ。俺にできることはなんでもしてやるし、できなくてもどうにかしてやる。だから」

ずらりと並べられた、欲しかった物を思い出した。
あんなにうれしかったのに、大切にしていたのに、色あせまるで欲しくなくなったことを。

「っと思ってたんだが、やめた」
「へ?」
「テメーにゃなにひとつ選ばせてやらねえ」

テレビ画面を指さしながら満面の笑みを浮かべた千空は、これは脅迫だともう一度告げた。

「金も名誉も地位もなにもかも置いてきた。ここにいるのはただの石神千空で、それ以外になにもねえ。俺を、俺だけを欲しがって、俺だけをテメーのものにしてくれ、ゲン」
「……俺、よくばりだって言ったじゃん」
「ああ、だから脅迫してんだよ。テメーが頷きゃこのニュースは石神博士の引退を誤解してガセ飛ばしただけになる。だが拒否れば」
「世界の石神博士を誘拐した、ってマジシャンあさぎりゲンはおしまいじゃん」
「ニート飼う方をお勧めするな」
「千空ちゃんニートになれるの? なんだかんだすーぐ研究始めてまた表舞台戻るでしょ」
「研究はするだろうが別に舞台なんざどこでもいい」

ぐぐ、と喉の詰まりがひどくなる。
なんてことだ。ゲンはよくばりだと言っているのに、千空は全部捨てた自分だけで満足しろと言う。

コーラもトランプも、ゲンが好むなにもかもを持たない作らないなにもできない石神千空。石神村の村長じゃない科学王国のリーダーじゃない復興の立役者石神博士でもない。できることなんて彼たった一人の力分しかない、無力なひょろがりのミジンコ。

バカだな、そんなの出会った頃の千空だ。
ワクワクするもの、未知のものにはしゃいで笑うたった一人の少年。彼に恋をしようと思った、彼になら失恋したいと願った。その時にはきっともうとっくに。

「ねえ、この脅迫ってさ、俺が悪名ついても気にしなけりゃ成り立たないよ」

得意満面だった千空がひるんだのが、ゲンに力を与える。

「ガセにできるとか言ってさぁ、俺ならこんな評判くらいひっくり返せるって思って計画たてたでしょ」

自分はもう戻れないくせに、ゲンには逃げ道を用意して。
千空を受け入れても受け入れなくても大丈夫なように。ふざけないでほしい、脅迫なんて言っておきながら優しすぎる。まるで脅していない。
もっと全力で巻き込んでくれたら。いや、そうしない、できないのが千空なのだから今回はゲンが譲るしかないのだろう。彼がゲンのわがままにつきあい、失恋を待ってくれたように。

「あー、なんだか変な噂のついちゃった名前とかいらないよねぇ。マジシャンとメンタリスト以外にもなんだかんだ役割増えちゃったのもいいかげん面倒だし」
「……悪かっ、」
「だから愛の逃避行、なんてのも唆らない? 二人っきりでさ」
「っ、ゲン」
「うん。なにも持ってない浅霧幻だよ。ところで君は石神千空ちゃん?」
「ああ、そうだ。奇遇だな、俺もなにも持ってねえんだ」
「ジーマーで!? 二人共身一つだなんてゴイスー偶然。まるで石化から復活したてみたいだね」

バカげた茶番だ。
だけどそれくらいでいい、構わない。なんせなにも持っていないミジンコともやしだ。身軽で吹けば飛ぶような二人きり。

「そうだな。俺はテメーだけいりゃそれでいい」
「俺も……ううん、俺はよくばりだからもうひとつだけ欲しいな」

なんせこれから行うのは愛の逃避行なので。
世界中巡っても手に入れられなかった、ロマンスだけちょうだい。